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Posted by: tachibana
ツイッターでも書きましたが、東京(新宿か渋谷当たり)で「ペイガンの伝統的魔女になるには」という感じのタイトルで、私の体験を元にペイガンの伝統的魔女になるにはどんなことを学んでおくといいか、何をすると良いかなどの単発講座(?)をやってみようかな、と思っています。

もう少し具体的に言うと、イニシエイションを受ける前にどんなことを学び、どんなことを訓練しておくとよいか、というようなことを体験を元にお話ししてみるというのも面白いかもしれない、と思い始めたのです。魔女になりたいという人(ここではペイガニズムの魔女に限定しての話ですが)が

・先づ何をしたらいいのか?
・どんなことを学んでおくといいのか?
・イニシエイションを受けるにはどうすればいいのか?
・そもそも自分はペイガニズムの魔女に向いているのか?
・イニシエイションの失敗について

等、そろそろ人前で話をしてもいい頃かな、と思ってきたという方が適切かもしれません。
私は今まで人様の前で色々語るのもおこがましいかな、とも思っていたのですが、自分があとどのくらい生きるかな?と考えた時、そろそろ語っておいてもいいだろう、という気持ちになってきたという言い方の方がより正確なのかもしれません。

また文章では伝えられないものが細かい所(でも割と大切なこと)で結構最初からあったりもします。
そんな話をするのも誰かの役には立つかな、と思っていたりもします。

費用はは実費だけと考えています。
たぶん1000~2000円くらいかな、と思っています。
資料代とか場所代の一部、という感じです。

これから細かい所を詰めて行こうと思います。
今後また色々決まり次第、このブログやツイッター等で告知させて頂く予定です。
Posted by: tachibana
魔女になるにはどうしたらよいか?という質問はよく頂きます。
でもその方法は色々です。イニシエイションに至る手順(?)なども魔女の種類や流派によって様々です。

まづ、魔女になりたいと思ったら
「自分は魔女をどのようなものだと思っているか?」
「どのような魔女になりたいのか?」
等をしっかりと考えてみるべきです。そして、それは紙に書き出しましょう。

なぜ紙に書くのかといえば、頭の中ではきちんと考えたつもりでも、意外とそれはいい加減だったりするものだからです(これは魔女に限った話ではありません)。そして、それについてしっかりと検証することが大切です。

次に本などで知識を得ます。
でも本はかなりいい加減です。
なので、私が考えるペイガンとしての魔女の場合、それなりにキャリアの長い実践者に質問するなりするのが一番良いと思います。

これは私たちの世代からしてみればとてもうらやましいことです。昔はそもそも日本人に長く実践している人はいませんでしたし、インターネットなどという便利なものもなかったのでそれはそれは大変でした(笑い

もっとも、ウイッチクラフトの世界には実に多くの考え方があって、その中には明らかに危険な実践をしている人や、危険人物も残念ながら多いので、それを忘れてはいけません。

「あ、ベテランの魔女を見つけた!」

と浮かれて飛びつくと思わぬ危険や被害に遭うこともあります。
インターネットの発達と共にそうした危険は非常に大きくなっています。危険人物ほど目立つ行動をとりがちですし、興味を持ちたての初心者ほどそういう人に惹かれる危険性があります。ある意味危険人物や危険な実践をしている人ほど初心者には魅力的に映ることが多いのも事実ですからここは要注意です。

さて、20世紀になって異教の宗教的なものとして復活したウイッチクラフトなどではある程度学んだあと、魔女とコンタクトを取って、そこで最低「1年と1日」(厳密なものではもちろんありません)といわれる期間を経て、受け入れてもらえることになればイニシエイションを授けられる、というのがポピュラーな流れです。

そして、自分一人で進めていくにしても、運よく「1年と1日」を誰かに見てもらえる機会があったらその指示に従って、必要な訓練をしていきます。

今の時代では可能な部分は志願者に教えて知識をある程度持たせてから、それを材料にもう一度「魔女になりたいのか?」を考えてもらう方が良いと思っています。また志願者自身もその上で「本当に自分は魔女になりたいのか?」という質問を厳しく自分にぶつけるべきです。イニシエイションを受ける機会があっても、そうした自分への問いかけに自分で心底納得できる確信が得られてからイニシエイションを受けるべきです。

でも実際はこんな簡単に書けるものではありません。

またセルフではなく、普通にイニシエイションを受けるという場合、単純に「魔女になれるから!」と飛びついてはいけません。キャリアの長い魔女の実践者である友人とも一致した話ですが、なんと言っても流派やイニシエイションを授けてくれる師との「相性」はとても重要だからです。これをしっかりとチェックし、考えることは極めて重要です。一度イニシエイションを受けると子弟の間には、とても強い絆、言いかえれば魂のレベルでの絆が出来てしまいます。これは例えて言えば、親子のようなもので、しかもこれは「子が親を選んで生まれる」ようなものですから、選び間違えたらとんでもないことになります。しつこく強調しますが、師匠との絆の影響は相当強く、かつ永続的です。これは私自身、今も強く実感しています。
Posted by: tachibana
「鐘は小さく叩けば小さく鳴り、大きく叩けば大きく鳴る」

という言葉があります。

この言葉の解釈、ためしにネットで検索したら色々なものが出てきます。
中には「人にものを頼んだり人物の大きさを知りたいときに大きな仕事を依頼してみれば、その人の大きさがわかる。小さい仕事ではみんなができてしまうのでわからない」などという人を試す方法だという斬新な(?)ものもあり「よくもまぁ、色々と考えるものだ」とあきれるを通り越して感心してしまいました。

さて、そんなことに感心していても仕方ありません。
そもそもこれは坂本竜馬が西郷隆盛を評して勝海舟に述べた言葉で、

「西郷は馬鹿である。大馬鹿である。小さくたたけば小さく鳴り、大きくたたけば大きく鳴る。その馬鹿の幅がわからない。残念なのは、その鐘(かね)をつく撞木が小さいことである」

というもの。

しかし、この「小さく叩けば小さく鳴り、大きく叩けば大きく鳴る」というのは意外と難しい。
と、いうのも人間、自分が得意なものだったり、自分が熱心に打ち込んでいるものであっりりするとどうも

「鐘を小さく撞かれても、ついつい大きく鳴ってしまう」

というのが多いものだからです。
大きくなってしまう理由はいくつかありますが、

1つは人間得意なものにはつい饒舌になるもの。得意心からなのか、親切心なのか、おそらくそのないまぜがほとんどなのでしょうが、小さく撞かれたのに大きく鳴ってしまう。
2つ目は撞いた相手の力量も考えずに大きく鳴ってしまう。
そして3つ目は相手のこともお構いなく、自分のこともお構いなく、それこそ熱心などこぞの信徒がちょっとしたきっかけを見つけたら人に喰いついて離れないぞといわんばかりに熱烈に布教するかの如く、自分の打ち込む物に対する熱心さゆえの暴走。
他にも見つけるつもりならあるでしょうが、まぁ、大体この3つが大きな理由でしょう。

いづれも良くて有難迷惑、現実はた迷惑。

一見似ていてもこの原因、各々その根本は違っていたりします。
1つ目の根本にあるのは、傲慢、あるいはそこまで行かなくても謙虚さの欠如。大体は人の時間を不必要に奪うか、あるいは相手に自分で疑問を持つという能力を奪いかねないもの。
2つ目の根本にあるのは、人を思う気持ちの足りなさ。例えばこれを教師や親がやると手取り足取りやりすぎて何もできない子ができてしまうのと同じ。
3つ目の根本にあるのは、単純な自己中心性。これはなかま欲しさからなのか自分の寂しさを埋めるため、あるいは自分の達成感を得んが為等々。

しかし、どれも誰もが陥りがちなものであるのも事実です。

私自身、どれもかつて痛いほど身に覚えのあるものばかり。
「若さとはかように恥ずかしきもの」などと、格好つけてみた所で反省しきりであることもまた事実です。
それでも、この20数年はこの言葉を常に意識しつつ、それでも日々反省しつつという感じに過ごしてきました。
年と共に1つ目3つ目はさすがになくなってきましたが、それと同時に2つ目はこころする必要が増えてくるのも事実。相手の事を思っているつもりで実は相手の可能性を潰してしまう危険というのは年とともに増えるものなのかもしれません。

逆もまた同じ。
大きく疲れても小さくしか鳴らないのは、大体がけちか自称謙虚、実は卑屈の現れ。

なかなか素直な大きさというものは難しいものです。
いつかは自分に「鐘のようであれ」ということなく、自然体で鐘のようにあることができるようありたいと思っています。




Posted by: tachibana
とある所で、とある人達の対話を横で聞いていて思った事ですが、誰しも人の欠点を(陰で言うのはともかくとして)面と向かって真摯に言うのはなかなか難しいものだと思います。難しいだけでなく、言う方にもデメリットがかなり出る可能性もあるし、そんなことを考えると子供に大人が注意することはできてもある年を境にだんだん言えなくなってきます。

これは同時に逆のことも言えます。
ある年齢までは自分の欠点などを注意してくれる人も多くいます。
しかし、ある程度の年齢になってくるといきなりみんな言ってくれなくなります。
まぁ、当然です。
そして、いつの間にか自分の周りから人が消えていく、というのもよく見る光景です。

どちらも仕方がないことなのは間違いありませんが、ある種の人の業というか、寂しさのようなものを感じるのもまた事実。

私などは一般的レベルから考えるとかなりずけずけと言ってしまう方なのですがそれにはそれなりに酷い目にもあってきましたし、摩擦も摩擦などというレベルでなく経験してきました。もちろん、そのために絶交状態になってしまった人も少なくはありません。

ただ、今思い返しても間違ってはいなかったな、とも思うのです。間違ってなければよいというものではないとも言えますが、間違っていないならある意味あきらめもつきます。

・・・と、いろいろ考えてみた結果、結局私はそういう性分、という事なのだろうな、と。
雨にも負けずではないけれど、

自分の悪いことろを遠慮なく口にしてくれる人は大切にし
納得できなければ反論し
それが誤解なら誤解を解き
指摘が正しければ素直に認め正し
人の問題点は必要ならば指摘し
共に正し
正しいことは正しい、悪いことは悪いと率直に口にする

そういう人になりたかったわけではないけれど、そういう性分を貫くことに結果的になってしまったな、と。
でもまぁ、ここまで来ると存外そういう自分を嫌ってもいないので、これはこれで良いのだろうと思っているのもまた事実。

とかく人は性分には逆らえないもの、などとうそぶくのも我流の粋なのかな、と思ったり、思わなかったり。
Posted by: tachibana
英語等、ヨーロッパ系の言語を勉強していると結構「バイブルに依る言い回し(あるいは本当の意味でのイディオム)」が結構出てきます。アラビア語などを勉強しているとこれまた当然のように「クルアーンによるもの」が多く出てきます。つまり、こうした外国の言語を勉強するときはそのエリアで支配的な宗教の教典を知らないと意味が分からないものがそれなりにある、という事になります。

そう考えた時、日本語ってそういう宗教に根差した言い回しって少ないですね。知らなくてもどうにかなります。でも、逆に言うとそれはかなり特殊です。交換か得れば日本のように無宗教的な考え方がいかに世界ではマイナーなものかが簡単に理解できると思います。

日本人はもっと宗教というものについて学び、宗教についてのGHQの植えつけたアレルギー反応を克服しなければ、いくら経済大国になろうが、何しようが本当の意味で国際社会を理解することができませんし、ある程度以上の信頼や尊敬を獲得することが難しいのは当然です。

一人でも多くの人が「何かの宗教を」ではなく、「広く宗教を」学んで欲しいといつも思っています。
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