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Category: 言語と思考
Posted by: tachibana
普段特に意識していなかった「言葉」を改めて意識すると、以外は日常何も考える必要を感じずに使っていた言葉が案外あやふやなものであることに気が付く。そうすると、本来なかったもやもやしたものが生まれて、問題がなかったところに問題が生まれた感じになる。

例えば「自由」とか「愛」とか「やさしさ」とか、まぁ、なんでもいいのだが、日常何も考えずに使ったり、聞いたりしている言葉を改めて「意識してみる」のだ。すると自分がそういう言葉をいかに理解していなかったががわかる。そこで辞書を引いてみると、とりあえずそこから考えるための手掛かりは手に入れられる。しかし、だ。そこには誰でもが客観的に認める共通項が出ているだけで血の通ったものではないし、ましてや自分の思考の一部となるほど有機的ではない。ようするに見栄えの良い無機物なのだ。

そこで、その問題、つまり「改めて意識した言葉の意味するところ」を自分でしっかり考えるのだ。そして自分なりの答えを出して、もやもやがなくなるまで、そこまで何日でも考えてみる(この時、考えながらメモを取って見直していくと堂々巡りをかわしやすくなるが、かといってそれが絶対的に必要なものというわけではない)。その結果、何かストン、と落ちる感じに自分の中ですっきりしたものに変わる。意識し始めた時に現れたもやもやは既にそこにはない。するとそれは結局元に戻っただけだと見えるかもしれない。けれどそれは違う。考え抜いた後にはそのことについての見通しがかつてより明晰に、はっきりとしたものに見えてくる。つまり、その言葉に対しての新たな見識を得たのだ。

そうやって「見識を得た言葉」は思考の道具、いや武器になる。逆に言えば腑に落ちるまで考え抜いたことがある、手垢まみれになったことによってクリアーになった言葉、いじり倒して手触りが良くなった事で却って切れ味が鮮明になった言葉、そうした言葉の数が思考の深さの限界を、その時点での限界を決めるのであり、同時に超えさせるのである。

それに、このように「普段意識していなかったものを改めて意識して考える」という遊びは自分の中に対するフィルターというか、整理整頓の道具というか、あるいは新しい積み直しになる。言い換えれば自分の中に蓄えてきた概念やイメージ、あるいは考え方などが「その時の自分の身の丈よりちょっと大きめの位置」で整理されるのである。ただ、大切なのは若い頃に読んだ小説を20年後に読み返した時違った読み方ができるようになっているのと同じで、言葉に対する感覚も年とともに変化する。だから、時々一度考えた言葉をもう一度考え直してみることも自分を発見する意味で大切である。

いうまでもなく、人は言葉で思考する。その言葉が借り物の言葉である限り、その人の思考はどこかしら借り物の粋を出ないのである。だからこうして自家薬篭中のものにした言葉が増えれば増えるほど自分の思考が自分のものとなっていくのである。

06/17: WEN NEWS No.3

Posted by: tachibana
 WEN NEWS No.3を一足先に拝読しました。

 長文の書評が秀逸でした。楠瀬さんならでは、というか楠瀬さんにしか書けないというか、というオリジナリティあふれるものになっています。魔女に興味のある人なら魔女関係の本の読み方を示唆してくれる意味でも必読です。

 ちょっと難しいだろうな、と思う所も何か所かありました。よくわからず誤解してしまう可能性があるかもしれないと思う所もいくつかありました。でも、おそらくその難しさは魔女として色々と悩んだり、自問自答したりという経験の量がある程度ないと理解が難しいだろうな、という意味での難しさだと思います。もちろん、ただの量ではなく質量ともにの量なのはいうまでもありません。逆に私のように道のりや歩き方は違えどある意味「同じ時間」を歩いてきた身としてはそこが面白い所でもあったのですが。とはいえ、そこは楠瀬氏の文章力。「理解しよう」という意志で何回か読み返せば経験が浅い人でも理解できると思いますが、そこはちょっと老婆心。

 老婆心ってなんで老婆の心なんだろう?という疑問は前にも何回か持っていたのですがなんとなく素通りして今まで調べたことなく、また、その疑問も忘れてしまっての繰り返しでした。国語辞典を引いても意味しか出ていない。大辞林を紐解いたら「仏教からの言葉。年取った女性が度を越して気を遣う事から」というのが語源らしい。たぶんそういう話(説話?)があるんでしょうね。

 ※と、書いてから気になったので友人の僧侶に質問したら景徳傳燈録という禅宗系の出典が元だという事を教えて頂きました。それを手掛かりに調べてみたら北宋(日本では平安後期にあたります)の仏教書だそうで、その中に「老婆心切」という言葉が出てくるのだそうです。これは「老婆が子や孫を慈愛深く世話をするように、仏道修行者が、志を同じくする同輩の修行者に気を遣うこと」という意味で、本来は「篤い気遣い、思いやり溢れる親切」というような意味だったようです。日本に伝わって江戸時代(のおそらく元禄時代くらい)に「切」がとれ現在の「老婆心」になったようです。お蔭様ですっきりしました。

 糸口が捕まればこうやって素人でも調べられますが、その糸口はやはり専門の方に伺わないとなかなかつかめるものではありませんね。感謝至極です。

 閑話休題。

 もう一つの記事である「道に迷っている魔女へのアドバイス」

 これはある程度魔女としての活動あるいは魔女志願者としての活動をしながら道に迷った人に対して非常に実践的に役立つ素晴らしいアドバイスだと思います。

 楠瀬氏自身がツイッター(2017.6.15)で「私が英語で発表した一連のアドバイスを元に書いた記事ですが、もともとのアドバイス集は某国の巨大ペイガン・ネットワーク会長を務めた友人から、「これはどのペイガンにとっても素晴らしいアドバイスだと思うよ!」と言ってもらったものです。」とツイートされていますが、私も全く同意見です。

 さて、これ以上ここで色々書いてしまうとこれから読む人の楽しみと、驚きと発見の邪魔をしてしまいますのでこれについてはここまでにしておきます。ぜひこれを読んだ方と読後の話をしたいな、と思う記事でした。

 と、いうわけでこの辺で。
Posted by: tachibana
ツイッターでも書きましたが、東京(新宿か渋谷当たり)で「ペイガンの伝統的魔女になるには」という感じのタイトルで、私の体験を元にペイガンの伝統的魔女になるにはどんなことを学んでおくといいか、何をすると良いかなどの単発講座(?)をやってみようかな、と思っています。

もう少し具体的に言うと、イニシエイションを受ける前にどんなことを学び、どんなことを訓練しておくとよいか、というようなことを体験を元にお話ししてみるというのも面白いかもしれない、と思い始めたのです。魔女になりたいという人(ここではペイガニズムの魔女に限定しての話ですが)が

・先づ何をしたらいいのか?
・どんなことを学んでおくといいのか?
・イニシエイションを受けるにはどうすればいいのか?
・そもそも自分はペイガニズムの魔女に向いているのか?
・イニシエイションの失敗について

等、そろそろ人前で話をしてもいい頃かな、と思ってきたという方が適切かもしれません。
私は今まで人様の前で色々語るのもおこがましいかな、とも思っていたのですが、自分があとどのくらい生きるかな?と考えた時、そろそろ語っておいてもいいだろう、という気持ちになってきたという言い方の方がより正確なのかもしれません。

また文章では伝えられないものが細かい所(でも割と大切なこと)で結構最初からあったりもします。
そんな話をするのも誰かの役には立つかな、と思っていたりもします。

費用はは実費だけと考えています。
たぶん1000~2000円くらいかな、と思っています。
資料代とか場所代の一部、という感じです。

これから細かい所を詰めて行こうと思います。
今後また色々決まり次第、このブログやツイッター等で告知させて頂く予定です。
Posted by: tachibana
魔女になるにはどうしたらよいか?という質問はよく頂きます。
でもその方法は色々です。イニシエイションに至る手順(?)なども魔女の種類や流派によって様々です。

まづ、魔女になりたいと思ったら
「自分は魔女をどのようなものだと思っているか?」
「どのような魔女になりたいのか?」
等をしっかりと考えてみるべきです。そして、それは紙に書き出しましょう。

なぜ紙に書くのかといえば、頭の中ではきちんと考えたつもりでも、意外とそれはいい加減だったりするものだからです(これは魔女に限った話ではありません)。そして、それについてしっかりと検証することが大切です。

次に本などで知識を得ます。
でも本はかなりいい加減です。
なので、私が考えるペイガンとしての魔女の場合、それなりにキャリアの長い実践者に質問するなりするのが一番良いと思います。

これは私たちの世代からしてみればとてもうらやましいことです。昔はそもそも日本人に長く実践している人はいませんでしたし、インターネットなどという便利なものもなかったのでそれはそれは大変でした(笑い

もっとも、ウイッチクラフトの世界には実に多くの考え方があって、その中には明らかに危険な実践をしている人や、危険人物も残念ながら多いので、それを忘れてはいけません。

「あ、ベテランの魔女を見つけた!」

と浮かれて飛びつくと思わぬ危険や被害に遭うこともあります。
インターネットの発達と共にそうした危険は非常に大きくなっています。危険人物ほど目立つ行動をとりがちですし、興味を持ちたての初心者ほどそういう人に惹かれる危険性があります。ある意味危険人物や危険な実践をしている人ほど初心者には魅力的に映ることが多いのも事実ですからここは要注意です。

さて、20世紀になって異教の宗教的なものとして復活したウイッチクラフトなどではある程度学んだあと、魔女とコンタクトを取って、そこで最低「1年と1日」(厳密なものではもちろんありません)といわれる期間を経て、受け入れてもらえることになればイニシエイションを授けられる、というのがポピュラーな流れです。

そして、自分一人で進めていくにしても、運よく「1年と1日」を誰かに見てもらえる機会があったらその指示に従って、必要な訓練をしていきます。

今の時代では可能な部分は志願者に教えて知識をある程度持たせてから、それを材料にもう一度「魔女になりたいのか?」を考えてもらう方が良いと思っています。また志願者自身もその上で「本当に自分は魔女になりたいのか?」という質問を厳しく自分にぶつけるべきです。イニシエイションを受ける機会があっても、そうした自分への問いかけに自分で心底納得できる確信が得られてからイニシエイションを受けるべきです。

でも実際はこんな簡単に書けるものではありません。

またセルフではなく、普通にイニシエイションを受けるという場合、単純に「魔女になれるから!」と飛びついてはいけません。キャリアの長い魔女の実践者である友人とも一致した話ですが、なんと言っても流派やイニシエイションを授けてくれる師との「相性」はとても重要だからです。これをしっかりとチェックし、考えることは極めて重要です。一度イニシエイションを受けると子弟の間には、とても強い絆、言いかえれば魂のレベルでの絆が出来てしまいます。これは例えて言えば、親子のようなもので、しかもこれは「子が親を選んで生まれる」ようなものですから、選び間違えたらとんでもないことになります。しつこく強調しますが、師匠との絆の影響は相当強く、かつ永続的です。これは私自身、今も強く実感しています。
Posted by: tachibana
「鐘は小さく叩けば小さく鳴り、大きく叩けば大きく鳴る」

という言葉があります。

この言葉の解釈、ためしにネットで検索したら色々なものが出てきます。
中には「人にものを頼んだり人物の大きさを知りたいときに大きな仕事を依頼してみれば、その人の大きさがわかる。小さい仕事ではみんなができてしまうのでわからない」などという人を試す方法だという斬新な(?)ものもあり「よくもまぁ、色々と考えるものだ」とあきれるを通り越して感心してしまいました。

さて、そんなことに感心していても仕方ありません。
そもそもこれは坂本竜馬が西郷隆盛を評して勝海舟に述べた言葉で、

「西郷は馬鹿である。大馬鹿である。小さくたたけば小さく鳴り、大きくたたけば大きく鳴る。その馬鹿の幅がわからない。残念なのは、その鐘(かね)をつく撞木が小さいことである」

というもの。

しかし、この「小さく叩けば小さく鳴り、大きく叩けば大きく鳴る」というのは意外と難しい。
と、いうのも人間、自分が得意なものだったり、自分が熱心に打ち込んでいるものであっりりするとどうも

「鐘を小さく撞かれても、ついつい大きく鳴ってしまう」

というのが多いものだからです。
大きくなってしまう理由はいくつかありますが、

1つは人間得意なものにはつい饒舌になるもの。得意心からなのか、親切心なのか、おそらくそのないまぜがほとんどなのでしょうが、小さく撞かれたのに大きく鳴ってしまう。
2つ目は撞いた相手の力量も考えずに大きく鳴ってしまう。
そして3つ目は相手のこともお構いなく、自分のこともお構いなく、それこそ熱心などこぞの信徒がちょっとしたきっかけを見つけたら人に喰いついて離れないぞといわんばかりに熱烈に布教するかの如く、自分の打ち込む物に対する熱心さゆえの暴走。
他にも見つけるつもりならあるでしょうが、まぁ、大体この3つが大きな理由でしょう。

いづれも良くて有難迷惑、現実はた迷惑。

一見似ていてもこの原因、各々その根本は違っていたりします。
1つ目の根本にあるのは、傲慢、あるいはそこまで行かなくても謙虚さの欠如。大体は人の時間を不必要に奪うか、あるいは相手に自分で疑問を持つという能力を奪いかねないもの。
2つ目の根本にあるのは、人を思う気持ちの足りなさ。例えばこれを教師や親がやると手取り足取りやりすぎて何もできない子ができてしまうのと同じ。
3つ目の根本にあるのは、単純な自己中心性。これはなかま欲しさからなのか自分の寂しさを埋めるため、あるいは自分の達成感を得んが為等々。

しかし、どれも誰もが陥りがちなものであるのも事実です。

私自身、どれもかつて痛いほど身に覚えのあるものばかり。
「若さとはかように恥ずかしきもの」などと、格好つけてみた所で反省しきりであることもまた事実です。
それでも、この20数年はこの言葉を常に意識しつつ、それでも日々反省しつつという感じに過ごしてきました。
年と共に1つ目3つ目はさすがになくなってきましたが、それと同時に2つ目はこころする必要が増えてくるのも事実。相手の事を思っているつもりで実は相手の可能性を潰してしまう危険というのは年とともに増えるものなのかもしれません。

逆もまた同じ。
大きく疲れても小さくしか鳴らないのは、大体がけちか自称謙虚、実は卑屈の現れ。

なかなか素直な大きさというものは難しいものです。
いつかは自分に「鐘のようであれ」ということなく、自然体で鐘のようにあることができるようありたいと思っています。




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