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Posted by: tachibana
英語等、ヨーロッパ系の言語を勉強していると結構「バイブルに依る言い回し(あるいは本当の意味でのイディオム)」が結構出てきます。アラビア語などを勉強しているとこれまた当然のように「クルアーンによるもの」が多く出てきます。つまり、こうした外国の言語を勉強するときはそのエリアで支配的な宗教の教典を知らないと意味が分からないものがそれなりにある、という事になります。

そう考えた時、日本語ってそういう宗教に根差した言い回しって少ないですね。知らなくてもどうにかなります。でも、逆に言うとそれはかなり特殊です。交換か得れば日本のように無宗教的な考え方がいかに世界ではマイナーなものかが簡単に理解できると思います。

日本人はもっと宗教というものについて学び、宗教についてのGHQの植えつけたアレルギー反応を克服しなければ、いくら経済大国になろうが、何しようが本当の意味で国際社会を理解することができませんし、ある程度以上の信頼や尊敬を獲得することが難しいのは当然です。

一人でも多くの人が「何かの宗教を」ではなく、「広く宗教を」学んで欲しいといつも思っています。
Posted by: tachibana
この所、人に頼まれて経済学の概論的な話を何回かに分けてしています。
まぁ、1コマ100分で「経済学とは」などという話で1回、マクロを5回、ミクロを5回という感じなので、大して深い話をしているわけではありません。

経済学と私が初めてであったのは高校2年の時。
ゲーム理論に興味を持って、その前提になる経済学をやらないと今一つわからない、という事で日経文庫の「経済学入門(上)(下)」を友人と二人でノートを取りながらの読書会を部活動の一つとしてやりました。ものすごくおもしろくて、わくわくしながらページをめくったり、時に頭を抱えたりしながら、何とか1か月半くらいで読み切りました。

その後、学生と自営業とその他・・・という感じでいくつもの草鞋を履き続け、経営学なんかも楽しくなり、経済学や経営学など色々楽しく学んでいました。実際にはそんな簡単にいくわけはないけれど、経済活動が偏微分方程式で「最適な状態が求められる」などという話も、色々な経済思想もとても楽しんでいました。

で、そんなころからかなりたって、また今度は人にお話しするために経済学というか初歩的な経済原論というかを読み直して、まとめていたのですが昔あんなにわくわくしたのに

「全然面白くない!」

のです。

ともかくつまらない。
全然楽しくない。
昔のあの楽しさはどこに行った?
と、言う感じなのです。
そこで、その原因を考えてみました。

実務ばかりに数十年。現実と理論の解離を実感しすぎて面白くなくなったのか?と最初は思いました。でも、それを言ったら他の理論分野のものもそうなっているはずですが、理論化学も理論物理などは今も面白い。あれだって現実には全然即していないものの方が多いわけですのに。

で、そんな感じでいろいろ考えていてふと気がついたのは、要するに

「人間の造ったものだからつまらない」

という事でした。そう考えるとたしかに法律などにもいつしかまったく魅力を感じなくなっていることにもそこで気が付きました。

ところが同じ人間がこしらえたものでも文学は面白みをしっかりと保っていました。文学も確かに人間のこしらえものですが、これは人間が自分の内なるものの具現化としてこしらえたものです。つまりこれは

「人間が創ったもの」

なのです。
これは人間が生きている証であり人間によってコントロールされたもの、つまり人間によって造られたものではないのです。そう考えると自然科学の理論分野も当然人間が造ったものではありません。

ようするにこの数十年の間に私は自然の営みや人間の営みによって生まれるものにしか面白みを感じなくなっているのだと実感しました。もちろん、社会の営みを軽視するようになったわけではありません。しかし、面白くなくなったのです。

このような形で自分の変化を実感するのは何とも面白いものであります。
Category: General
Posted by: tachibana
ダダ

知性には未来があるが
ダダには何の未来がない
知性の一つはマニアであるが
ダダはダダである


ツァラによって始まった、いや、初ったダダイズムは短命だったがシュールレアリズムという子供を遺した。

呪文を組み立てる時、韻を踏むことの大切さはいうまでもない。

和歌のリズムも、ソネットのリズムも、漢詩のリズムも
ありとあらゆる定型詩のリズムは

呪文のリズムだ

つまり

「こと葉のリず無」

が大切なのだ。

ダダはことばのリズムが「意味を超えた意味」を持つことを示している。
これは新たな呪文を創る者にリズムという意味を与えるのである。
意味を超えた意味こそが真の意味なのだ。

そして私の呪文の子供はシュールレアリズムとなり完結し始まりになる。

無論、リズムという言葉をどう書いてもいい。
表記法にも意味などないのだから。
だから無意味な表記で書けばいい。
そうすることはリズムはよりrhythmになるのだから。


閑話休題。

誰が仔馬に魔力が宿るといったのか?
仔馬には意味がないのに。

子供が発する仔馬に何の意味もありましない。
だから魔力が宿るのだ。

子供ことばの馬と仔馬にどんな違いがあるというのだ。

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Posted by: tachibana
魔女にもっとも必要なものが何かを1つ上げるとすれば、という質問をされました。神性に対する信仰心などは当然としても、色々と悩ましい。
結局私がそこで答えた答えは

「魔女にとってもっとも必要なものを1つだけあげるとするならば、それはリベラル・アーツである」

でした。

もちろん、ここでいうリベラル・アーツは伝統的な三学四科ではなく自然科学、社会科学、人文学、語学のような現代的なリベラル・アーツ、つまり幅広い教養となるわけですが、これがないと自分の見聞きしたものや、見聞した情報等を正しく判断することができなくなってしまいます。

特に魔女の世界は「いかにも正しいことを言っているような評価を得ているまがい物」も多いので、このことは今後さらに強調しても足りないということはないでしょう。

インターネットが普及するということは便利な反面、初心者には特に弊害が多いのです。例えば、私がよく言うことの一つですが、たかだか数年(数年もあれば御の字ということすら多いのですが)で、その道のプロのように騙る人と、本当に長年の実績と積み重ねを持っているプロフェッショナルが同じように情報発信できます。また、まがい物が本物のように騙ることも多々あります。それだけに、安易な道、努力が大して必要がない道、楽しさを前面に押し出した道など、色々なものが出てきます。でも、それらはほとんどがまがい物であるか、あるいは価値のないものです。もちろんこれは魔女に限らずあらゆるジャンルで当てはまります。

そうしたものの真贋を見極めるためには「正確に判断するための必須道具としてのリベラル・アーツ」が絶対に必要なのです。

もちろん、自分の無知を悟ることや、人の話をきちんと聞く、といったような最低限のことも重要です。しかし、それができたとしても悲しいかな、最低限の知識がないとそれがまるで生きてこないのです。

若い人と話をしていてよく聞かされる「各種陰謀論」等も、まともな、しかもちょっとした知識がきちんと身についていればデマだと簡単にわかるものが、いかにもありがたい話のように騙られている、あるいは語っている人を、見ることがよくあります。これなどもリベラル・アーツがないとどうなってしまうかの良い例でしょう。

最近の話題では近々来日するオーストラリア(だったかな?)の人で、シーシェパードという犯罪集団の活動を尊敬して支援、などという犯罪者礼賛が魔法の為に必要なものの例として挙げているとんでもない自称魔女をありがたがっている人もいるようですが、こういうのもリベラル・アーツが決定的に足りない一例でしょう。

ともあれ、こう書きながら、やはり「魔女に必要なものを一つと言われたらリベラル・アーツ」というのは適切な答えの一つであるということがよりはっきりしてきたように思います。
Category: 伝統について
Posted by: tachibana
前回(去年の5月)書いた中で「伝統とは常に更新されなければならない」ということを書きました。そして、更新されない伝統派博物館の展示物のようなものにすぎず、古典的価値はともかくとして使い物にはならない、そんなものになってしまう、ということも書きました。

伝統を更新することについて多少の具体例を挙げて説明をしましたが、今度はもう少し大きな視点でこのことをもう少し書いてみようと思いました。

よく伝統や伝統を大事にする人、あるいはその行為自体を否定したり、革新もしくはそれに近いキーワードで古いものを時代遅れと決めつける人がいます。しかし、それは伝統を更新するのではなく、単に
「伝統を理解できずに反抗期の子供のようにいきがっているだけ」

というのがほとんどです。

そういう人にこういうことを言うと「伝統なんかわかっている。その上で自分たちはものを言っている(もしくは活動している)」というような反論をされることがままあります。しかし、そういう人に伝統をどれだけ知っているのかを具体的に問うと、伝統に触れた気になっているだけでまるでわかっていないということがほぼ例外なく言えてしまうことは歴史的に色々な世界で繰り返されたことです。

伝統を不勉強で知らないくせに知ったかぶりで新しい時代を語る人は今までも多く現れては消えて行ったのです。伝統を破壊したり、伝統を新しいものに更新するには、伝統を熟知していなければできないということに気が付かない。そして、そういう人は最後まで気が付かないのです。

こう断言すると反感や反対意見を持つ人は多いと思います。また、私のこういう姿勢を年寄りじみた古臭い考え、という人もいるでしょう。若い頃の私もそういうタイプだったのでよくわかります(笑い

でも、もし私の言うことを否定するなら、例えばですが、今でも60年安保闘争の学生組織が当時以上に健在でなければいけないということになります。彼らは古い体制(これはある意味伝統と同じです)を否定し、新しい体制を声高に叫び立ち上がっていたのです。では、今現在どうでしょうか。これを見ている人の何割が当時の主役たちのことを支持していますか、と問いかけたいのです。支持している、支持していない以前に、これを読んで下さっている人達のほとんどはせいぜい、歴史の教科書にあった気がする、程度でほとんど何も知りもしないのではないでしょうか。

これは伝統を無視したり、伝統に対して知ったかぶりして「革新性」や「新しさ」を旗印に伝統に対して戦いを挑んだ人たちの「完璧な敗北」に他なりません。歴史の中に埋もれ、誰にも見向きもされない革新、伝統はまだ「古臭いと言われつつ存在」していますが、その伝統に戦いを挑んだ革新はその存在と記憶すら消し去られているのです。

かくいう私も伝統などを「古臭いもの」と否定し、革新の名のもとに政治活動をしたこともありました。安保闘争の主流派の流れのセクトで活動したり、のちに(これは偶然でしたけれど)当時の全学連の委員長ら幹部だった方と一緒に仕事をしたこともあります。そうした実体験や、生の話、そしてその後の実情などをリアルに体験し、見聞きしてきたわけです。その経験から、彼らや私の敗因が「伝統を知らずに伝統に立ち向かったことだ」ということを色々な角度から検証することになり、それを痛いほど実感しました。

一時の熱狂は簡単です。
それを創るのも簡単です。
また、それはとても新しく、活発で未来に続く素晴らしいものに見えることがあるのも事実です。
また大変勢いがあり、華やかにも見えるでしょう。

でもそれは歴史の中に消えていくあだ花に過ぎないのです。
根のない花はやがて無残に枯れていくのです。

結局、伝統をしっかり学び、伝統の中にしっかりと入り、伝統の堅苦しさやくだらないしきたりなどを経験し、伝統を熟知するという経験をしていない限り、伝統を乗り越えたり、破壊したり、ましてや更新して「新しい伝統を創る」ことなどできないのです。

これは魔女の世界というだけの話でなく、文学、芸術、学術、宗教、政治等々、どんな分野に対しても共通して言えることなのです。そしてそれは歴史がそれを雄弁に語っているのです。

私はあらゆる分野において声高に呼びかけたいのです。

「若人よ、伝統を謙虚に学び尽くし、知り尽くし、そして新しい伝統を創り出せ!」

と。

(3に続く)
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