12/29: 新刊のお知らせ
私家版だけを作っていた本が、アストラルパブリケーションから2冊同時発売になりました。
『魔女の宗教は信ずるに値するか』
(ISBN978-4-903125-00-8)
『「村の魔女」から「ムラの魔女」へ』
(ISBN978-4-903125-01-05)
です。
現在は魔法使いの店でのみの販売になっています。
来年にはアマゾン等からも購入していただけることになる予定です。
『魔女の宗教は信ずるに値するか』はこのブログの記事として書いたものをまとめた上でさらに大幅加筆訂正を加えて完成させたもので、ちょっと変わった魔女の宗教の入門書になっています。
『「村の魔女」から「ムラの魔女」へ』は私の考えるコミュニティ論をベースに「村の魔女」が現代の世の中に復活するとしたらどうなるのか?ということをテーマに書いてみました。
と、宣伝を兼ねた紹介でした(^^;
PS.ご注文のときに一言添えていただけばサインくらいはさせていただきます(欲しい人がいるかどうかは別として…^^;)
『魔女の宗教は信ずるに値するか』
(ISBN978-4-903125-00-8)
『「村の魔女」から「ムラの魔女」へ』
(ISBN978-4-903125-01-05)
です。
現在は魔法使いの店でのみの販売になっています。
来年にはアマゾン等からも購入していただけることになる予定です。
『魔女の宗教は信ずるに値するか』はこのブログの記事として書いたものをまとめた上でさらに大幅加筆訂正を加えて完成させたもので、ちょっと変わった魔女の宗教の入門書になっています。
『「村の魔女」から「ムラの魔女」へ』は私の考えるコミュニティ論をベースに「村の魔女」が現代の世の中に復活するとしたらどうなるのか?ということをテーマに書いてみました。
と、宣伝を兼ねた紹介でした(^^;
PS.ご注文のときに一言添えていただけばサインくらいはさせていただきます(欲しい人がいるかどうかは別として…^^;)
11/01: 日本人にとっての英語
教育についても少し書いてみようかと思い立ちました。
今回は昨今の英語教育についての話。
異論反論はあると思いますが、メールでも、掲示板でも、そういったご感想も含めていただければ幸いと思います。
大抵の日本人は英語を中・高と6年も学んでいますが、どうも「英語が使える」というレベルの人は少ないようです。就職情報誌などの募集広告の応募資格の中から「大卒以上」という記述がほとんど見られなくなってからもうかなりの年月が経ちますが、これは「大卒でなくてもよいという企業が増えた」という事ではなく、「大卒が当たり前になったのであえて書く必要がなくなった」という事情によるものです。と、すると、多くの日本人が中・高・大と8~10年英語を学んでいるのにろくに使えない、ということです。
それでも「英語を使える」という人はやはりかなりの少数派です。事実、英会話スクールや英語教材の広告が大量に出回っている事、その受講生のかなりの割合が大学卒業以上の人で占められているという事実は、それがいかに深刻化を証明しているといえるでしょう。
ところで、昭和60年改定から始まり、学校の週休2日の定着で一応の完成を見た「ゆとりの教育」は私が大宅壮一を交霊術で呼び出して、「一億総白痴化(1957年2月)」と言い放った貴方は、現状をどう表現しますか、と聞いてみたいほどの、惨憺たる現状を生み出しました。
また、「音声重視」「習うより慣れろ」といった英語教育が主流になり、文法の教科書は検定教科書から除外され、「読み書き重視」から「聞く話す重視」へと極端に傾斜し、英語教育から理屈の部分が大幅に削除されてきました。また、大学入試もセンター試験の音声試験導入を機に、一気にこの傾向への傾斜に拍車がかかりました。
しかし、私は素朴な疑問を覚えるのです。
いくら国際化が叫ばれていたとしても、現代の日本で「英語が話せなくて困った」という経験をする人のパーセンテージはそんなに上がったのだろうか?ここ1年で英語が話せずに本当に困った、という人はどのくらいいるのだろうか?英語を使う仕事についておられる片ならともかく、ほとんどの日本人は「英語が話せなくて困った」という事態に陥った経験というのは大して増えているわけではないのではないだろうか?と思うのです。それに反して「英語が読めなくて困った」という人は意外と多いのではないかと思います。また、インターネットがここ数年で一気に普及率を上げ「インターネットという文字の世界」の第一言語が英語であるということから「英語の読み書きの必要性」を身近に感じた人はかつてより桁違いに増えているのではないか、と思うのです。
英語の読み書きを求められることは家庭の中にまでインターネットを通じて入り込んでいますが、いきなり自宅に毎日外国人が来て英会話を必要とする、という事態はほとんどの日本人には無縁なのではないでしょうか。そう考えると、学校教育の音声重視への極端な傾斜や、英会話学校の隆盛などは、広告などによって踊らされて「必要性を感じさせられているだけ」で、実は多くの日本人にとっては「読み書き」の方が依然と必要な英語力なのではないかと思います。
また、この音声重視、会話重視の傾向は、英語学習を薄っぺらなものにしているという側面もあります。この20年は受験参考書を筆頭に、書店の学習書の棚から分厚く骨のあるハードカヴァーの本を、薄っぺらなソフトカヴァーの本を駆逐した20年と言えますが、語学の分野においてはそれがことさら顕著だといえなくもないと思います。また、薄っぺらなもので何とかしようとすれば、当然冊数が必要になり、出版社や教育産業の業者には大変なうまみを提供しているのも事実です。ですから、「売り手側」としてはどんどん読者や利用者が低レベルになってくれればくれるほど儲かるというのも実情でしょう。それでも「質の悪いものは消費者に受け入れられずに自然淘汰される」という信念の元、「大衆は賢い」という世迷いごとを言う人もいますが、実際に駆逐されているのは商業主義とは無縁の血の通った本であり、良書が悪書に駆逐されている、という現状です。そう考えると「大衆」という言葉が「愚民」という言葉と同値のものに感じてしまいますし、私からしてみればまったく同値の物に見えてしまっています。
閑話休題。
ともかく、英語の読み書きができれば事足りる人が実際には圧倒的多数を占め、また、読み書きがきちんとできる人なら音声教材や英語のラジオ放送などを聞いていれば「聞く、話す」という能力はそんなに苦労しなくても身につく、という事実を考えると、やはり外国語というものは「読み書き」にしっかりと取り組むべきものだと思いますし、それが「読み書き聞く話す」という4方向の能力を身につける最短かつ確実な方法だと信じます。
ただ、それは商業主義とも、努力をできるだけ廃して「楽にマスターしたい」(気持ちはわかりますが)という需要とも対極をなすので時代と共に受け入れられなくなっていくのも理解はしています。
最後に1冊の本について書いておきたいと思います。
それは「ダボス会議で聞く世界の英語」(鶴田 知佳子、柴田 真一 著 コスモピア刊)という本です。
この本の価値はそのCDにあります。26カ国、その多くが英語を母国語としない人たちの英語スピーチです。各国語に由来する独特の訛り、しかし、どの英語にも気品と格調があるのです。著者がその中で語る「世界各国で話される多種多様な英語はすべて同等」という考え方には感動を覚えます。これは音声教材をメインとした本でありながら「音声重視」の英語教育に対する強烈なアンチテーゼでもあります。「ネイティブらしく英語を使う」ことなどという「くだらない妄想」など早く捨て去って、堂々と「自分の英語」を話せばよいということを実感させてくれます。そして、自分の英語とは「日頃自分がなにをどう考えているか?」であり、「どれだけ英語で書かれた本を読んでいるか?」であり、「どれだけ自分で英文を書いているか?」であり、なんといってもノンネイティブの英語をネイティブの英語に「近づける」こととは無縁だということを各発言者の「格調ある英語」が私たちに教えてくれます。真のグローバル化とは何か?ということをこうしたものを材料にしっかり考える力こそ、私たちの英語教育にとって最も大切なものだとあえて断言して結びとします。
※今回から本を紹介する場合にはアマゾンのアフィリを導入することにしました。ここから発生するアフィリ報酬は全額児童福祉施設など必要とされるところへの寄付とさせていただきますので、もし興味をお持ちになられましたらぜひよろしくお願いします。
今回は昨今の英語教育についての話。
異論反論はあると思いますが、メールでも、掲示板でも、そういったご感想も含めていただければ幸いと思います。
大抵の日本人は英語を中・高と6年も学んでいますが、どうも「英語が使える」というレベルの人は少ないようです。就職情報誌などの募集広告の応募資格の中から「大卒以上」という記述がほとんど見られなくなってからもうかなりの年月が経ちますが、これは「大卒でなくてもよいという企業が増えた」という事ではなく、「大卒が当たり前になったのであえて書く必要がなくなった」という事情によるものです。と、すると、多くの日本人が中・高・大と8~10年英語を学んでいるのにろくに使えない、ということです。
それでも「英語を使える」という人はやはりかなりの少数派です。事実、英会話スクールや英語教材の広告が大量に出回っている事、その受講生のかなりの割合が大学卒業以上の人で占められているという事実は、それがいかに深刻化を証明しているといえるでしょう。
ところで、昭和60年改定から始まり、学校の週休2日の定着で一応の完成を見た「ゆとりの教育」は私が大宅壮一を交霊術で呼び出して、「一億総白痴化(1957年2月)」と言い放った貴方は、現状をどう表現しますか、と聞いてみたいほどの、惨憺たる現状を生み出しました。
また、「音声重視」「習うより慣れろ」といった英語教育が主流になり、文法の教科書は検定教科書から除外され、「読み書き重視」から「聞く話す重視」へと極端に傾斜し、英語教育から理屈の部分が大幅に削除されてきました。また、大学入試もセンター試験の音声試験導入を機に、一気にこの傾向への傾斜に拍車がかかりました。
しかし、私は素朴な疑問を覚えるのです。
いくら国際化が叫ばれていたとしても、現代の日本で「英語が話せなくて困った」という経験をする人のパーセンテージはそんなに上がったのだろうか?ここ1年で英語が話せずに本当に困った、という人はどのくらいいるのだろうか?英語を使う仕事についておられる片ならともかく、ほとんどの日本人は「英語が話せなくて困った」という事態に陥った経験というのは大して増えているわけではないのではないだろうか?と思うのです。それに反して「英語が読めなくて困った」という人は意外と多いのではないかと思います。また、インターネットがここ数年で一気に普及率を上げ「インターネットという文字の世界」の第一言語が英語であるということから「英語の読み書きの必要性」を身近に感じた人はかつてより桁違いに増えているのではないか、と思うのです。
英語の読み書きを求められることは家庭の中にまでインターネットを通じて入り込んでいますが、いきなり自宅に毎日外国人が来て英会話を必要とする、という事態はほとんどの日本人には無縁なのではないでしょうか。そう考えると、学校教育の音声重視への極端な傾斜や、英会話学校の隆盛などは、広告などによって踊らされて「必要性を感じさせられているだけ」で、実は多くの日本人にとっては「読み書き」の方が依然と必要な英語力なのではないかと思います。
また、この音声重視、会話重視の傾向は、英語学習を薄っぺらなものにしているという側面もあります。この20年は受験参考書を筆頭に、書店の学習書の棚から分厚く骨のあるハードカヴァーの本を、薄っぺらなソフトカヴァーの本を駆逐した20年と言えますが、語学の分野においてはそれがことさら顕著だといえなくもないと思います。また、薄っぺらなもので何とかしようとすれば、当然冊数が必要になり、出版社や教育産業の業者には大変なうまみを提供しているのも事実です。ですから、「売り手側」としてはどんどん読者や利用者が低レベルになってくれればくれるほど儲かるというのも実情でしょう。それでも「質の悪いものは消費者に受け入れられずに自然淘汰される」という信念の元、「大衆は賢い」という世迷いごとを言う人もいますが、実際に駆逐されているのは商業主義とは無縁の血の通った本であり、良書が悪書に駆逐されている、という現状です。そう考えると「大衆」という言葉が「愚民」という言葉と同値のものに感じてしまいますし、私からしてみればまったく同値の物に見えてしまっています。
閑話休題。
ともかく、英語の読み書きができれば事足りる人が実際には圧倒的多数を占め、また、読み書きがきちんとできる人なら音声教材や英語のラジオ放送などを聞いていれば「聞く、話す」という能力はそんなに苦労しなくても身につく、という事実を考えると、やはり外国語というものは「読み書き」にしっかりと取り組むべきものだと思いますし、それが「読み書き聞く話す」という4方向の能力を身につける最短かつ確実な方法だと信じます。
ただ、それは商業主義とも、努力をできるだけ廃して「楽にマスターしたい」(気持ちはわかりますが)という需要とも対極をなすので時代と共に受け入れられなくなっていくのも理解はしています。
最後に1冊の本について書いておきたいと思います。
それは「ダボス会議で聞く世界の英語」(鶴田 知佳子、柴田 真一 著 コスモピア刊)という本です。
この本の価値はそのCDにあります。26カ国、その多くが英語を母国語としない人たちの英語スピーチです。各国語に由来する独特の訛り、しかし、どの英語にも気品と格調があるのです。著者がその中で語る「世界各国で話される多種多様な英語はすべて同等」という考え方には感動を覚えます。これは音声教材をメインとした本でありながら「音声重視」の英語教育に対する強烈なアンチテーゼでもあります。「ネイティブらしく英語を使う」ことなどという「くだらない妄想」など早く捨て去って、堂々と「自分の英語」を話せばよいということを実感させてくれます。そして、自分の英語とは「日頃自分がなにをどう考えているか?」であり、「どれだけ英語で書かれた本を読んでいるか?」であり、「どれだけ自分で英文を書いているか?」であり、なんといってもノンネイティブの英語をネイティブの英語に「近づける」こととは無縁だということを各発言者の「格調ある英語」が私たちに教えてくれます。真のグローバル化とは何か?ということをこうしたものを材料にしっかり考える力こそ、私たちの英語教育にとって最も大切なものだとあえて断言して結びとします。
※今回から本を紹介する場合にはアマゾンのアフィリを導入することにしました。ここから発生するアフィリ報酬は全額児童福祉施設など必要とされるところへの寄付とさせていただきますので、もし興味をお持ちになられましたらぜひよろしくお願いします。
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10/09: オーラ、霊能力など
魔女になるとオーラが見えますか?
魔女になると霊能力が身につきますか?
と、いう質問を受けることがあります。
結論から言えば、
これは「魔女になると箒で空を飛べますか?」
と、いう質問と大差ありません。魔女になったからといってそういう能力が身につく、などということはありません。
ただ、箒で空を飛ぶのと違うのは、オーラを見たり、霊能力を身につけたり、ということをしている人は実際にいる、ということです。
これらの能力を持っている人は、生まれつきこうした能力を持っている人が多いようです。また、修行や訓練をすることでこれらの能力を身につけた人もいます。しかし、これは「魔女とは無関係」です。魔女の訓練や修行には基本的にそういう訓練や修行は通常の場合ありません。もちろん、そうした能力を元々持っていたり、何かの拍子に身につけてしまい、その力に振り回されてしまっている人に「力のコントロール法」を教える事はあります。また、中途半端な能力でかえって不都合がある場合はその能力をさらに強める訓練をしてコントロールほうを教える事もあります。
しかし、これは魔女とは基本的には無関係です。魔女でもそうしたことをしない人も多くいます。私に関して言えば、私自身がたまたまそういう技術を知っているから必要ならばそれに応じてお教えするくらいで、それだって積極的に、ということはありません。ましてや霊能力を身につけたい、という人に手ほどきをする、などということはまったく無意味で無価値だと思っているので、方法は知っていても(知らないとコントロールを訓練することができないので)決して人に教えたりはしません。
ちなみに霊能力というものは商売にして儲けよう、というのでなければ邪魔になることはあっても役に立つ、というものではありません。
しかし、オーラはちょっと違ってきます。
オーラを見るということは、それが人でも、ものでも、動植物でも健康状態や生命力をみるという意味で役に立つ事があります。ですから、オーラの見方、は私も人にお教えすることが結構あります。
ただ、この「オーラが見える」というのも問題がないわけではありません。
特に、生まれつきオーラが見える人は「オーラが見える」というだけで自分には特殊な能力や才能があると勘違いしてしまう人が結構いるからです。
また、かりにオーラが見えてもそれがどういうことを意味しているのか細かい事を判断するのは相当の知識と訓練が必要ですし、ましてやオーラを調整するなどというのは他のエネルギーワークなどが完全にできていないと話になりません。オーラの調整は基本的にエネルギーワークですから「オーラが見える」というだけではまったく話にもならないのです。
ところがテレビなどの影響でしょうか、「オーラが見える」というだけで「オーラの調整をします」などといって怪しげなことをいったり、したりしている人が最近増えてきているような気がします。これは何も役に立たないどころか、かえって悪化させてしまったりすることのほうが圧倒的に多いのです。ちょうど、「解剖図を覚えたから」といって素人が「手術をしてあげます」と言っているようなものなのです。
どんな能力も、どんな力もコントロールできてはじめて「使える」といえるのです。これは当たり前のことで、たとえば自動車を動かすことは小学生でもできますが、きちんと運転することはできないのと同じ事なのです。
最近立て続けに何件もこうした質問を何人もの方からお受けしたので、一度私なりの考え方を書いておくのもよいかな、と思って簡単にまとめてみました。
魔女になると霊能力が身につきますか?
と、いう質問を受けることがあります。
結論から言えば、
これは「魔女になると箒で空を飛べますか?」
と、いう質問と大差ありません。魔女になったからといってそういう能力が身につく、などということはありません。
ただ、箒で空を飛ぶのと違うのは、オーラを見たり、霊能力を身につけたり、ということをしている人は実際にいる、ということです。
これらの能力を持っている人は、生まれつきこうした能力を持っている人が多いようです。また、修行や訓練をすることでこれらの能力を身につけた人もいます。しかし、これは「魔女とは無関係」です。魔女の訓練や修行には基本的にそういう訓練や修行は通常の場合ありません。もちろん、そうした能力を元々持っていたり、何かの拍子に身につけてしまい、その力に振り回されてしまっている人に「力のコントロール法」を教える事はあります。また、中途半端な能力でかえって不都合がある場合はその能力をさらに強める訓練をしてコントロールほうを教える事もあります。
しかし、これは魔女とは基本的には無関係です。魔女でもそうしたことをしない人も多くいます。私に関して言えば、私自身がたまたまそういう技術を知っているから必要ならばそれに応じてお教えするくらいで、それだって積極的に、ということはありません。ましてや霊能力を身につけたい、という人に手ほどきをする、などということはまったく無意味で無価値だと思っているので、方法は知っていても(知らないとコントロールを訓練することができないので)決して人に教えたりはしません。
ちなみに霊能力というものは商売にして儲けよう、というのでなければ邪魔になることはあっても役に立つ、というものではありません。
しかし、オーラはちょっと違ってきます。
オーラを見るということは、それが人でも、ものでも、動植物でも健康状態や生命力をみるという意味で役に立つ事があります。ですから、オーラの見方、は私も人にお教えすることが結構あります。
ただ、この「オーラが見える」というのも問題がないわけではありません。
特に、生まれつきオーラが見える人は「オーラが見える」というだけで自分には特殊な能力や才能があると勘違いしてしまう人が結構いるからです。
また、かりにオーラが見えてもそれがどういうことを意味しているのか細かい事を判断するのは相当の知識と訓練が必要ですし、ましてやオーラを調整するなどというのは他のエネルギーワークなどが完全にできていないと話になりません。オーラの調整は基本的にエネルギーワークですから「オーラが見える」というだけではまったく話にもならないのです。
ところがテレビなどの影響でしょうか、「オーラが見える」というだけで「オーラの調整をします」などといって怪しげなことをいったり、したりしている人が最近増えてきているような気がします。これは何も役に立たないどころか、かえって悪化させてしまったりすることのほうが圧倒的に多いのです。ちょうど、「解剖図を覚えたから」といって素人が「手術をしてあげます」と言っているようなものなのです。
どんな能力も、どんな力もコントロールできてはじめて「使える」といえるのです。これは当たり前のことで、たとえば自動車を動かすことは小学生でもできますが、きちんと運転することはできないのと同じ事なのです。
最近立て続けに何件もこうした質問を何人もの方からお受けしたので、一度私なりの考え方を書いておくのもよいかな、と思って簡単にまとめてみました。
09/07: ヨガ
私の乏しい経験、しかもかなり以前のことになってしまいますが。
生死の境を何度も越えていく中で、もうそんな経験とは縁を切りたいとヨガに打ち込んだ頃がありました。多くの方々が仰る通りヨガは本当に奥深いと思います。私はその一部を、しかもほんの触りをなでたくらいでしかありませんが(^^;
結局私がヨガについて感じた(学んだ、とまではいえないのであくまでも「感じた」ですが…)事は3つだけでした。
1つは「自分を見つめる」ことです。結局私は何なんだろう?というとことを自分に問いかける事。
2つ目は神、あるいは女神に対しての爆発的な、抑えがたい感情。
3つ目は自分の意思を極限まで絞り込んで集中させること、でした。
しかし、こう考えると私のヨガは瞑想と変わりないなぁ…(^^;
生死の境を何度も越えていく中で、もうそんな経験とは縁を切りたいとヨガに打ち込んだ頃がありました。多くの方々が仰る通りヨガは本当に奥深いと思います。私はその一部を、しかもほんの触りをなでたくらいでしかありませんが(^^;
結局私がヨガについて感じた(学んだ、とまではいえないのであくまでも「感じた」ですが…)事は3つだけでした。
1つは「自分を見つめる」ことです。結局私は何なんだろう?というとことを自分に問いかける事。
2つ目は神、あるいは女神に対しての爆発的な、抑えがたい感情。
3つ目は自分の意思を極限まで絞り込んで集中させること、でした。
しかし、こう考えると私のヨガは瞑想と変わりないなぁ…(^^;
08/29: 村の魔女コミュ
ほんのできごころで(笑)ミクシィに「村の魔女コミュ」を作ってみました。
Wicca系のコミュはたくさんあるのに、村の魔女関係は物語とかファンタジーに関係するものしかなかったのでとりあえず1つくらいあっても良いかな?と(^^;
何も決めていないので、これからどうするか少しづつ考えていこうと思います。
Wicca系のコミュはたくさんあるのに、村の魔女関係は物語とかファンタジーに関係するものしかなかったのでとりあえず1つくらいあっても良いかな?と(^^;
何も決めていないので、これからどうするか少しづつ考えていこうと思います。
