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Posted by: tachibana
個人が信仰を持ち、その修練の日々の中で自己を磨き上げ、自己の内側に持っている「内包する神性」を磨きだしていく道を歩む「信仰者」とは社会とどうかかわっていくべきでしょうか。

結論で言えば、「真の信仰者」は自分の信じる宗教的基準に基づいて「社会を磨く」働きをすべきだといえるでしょう。

信仰者である私たちは、私たちが信奉する教えの実践の中で、自分を磨き続け、自分の内側から出る光によって社会を明るくしていけばよいのです。これは決して難しいことではありません。また、難しいことであってもいけないのです。そして、そうした想いを持って信仰を強めれば強めるほど、他の何にも代えられない「信仰者としての誇り」を得ることができるのです。

その意味では「魔女の誇り」というのも案外この点に集約されるのかもしれませんし、経験豊かな魔女ほど魔法を使おうとしない、というより使う必要性を感じなくなるというのも理解しやすいのではないでしょうか。

また、この観点で「10/08: 天職」を読み返していただけば転職という言葉のもつ意味がより自分に近いものになるのではないかと思います。
Posted by: tachibana
ところで、信仰はなぜ人間を磨く働きをするのでしょうか。宗教を学び、その修養を行う「信仰」が自己の内側に持っている本質である「内包する神性」に対する表敬の道であり、開放への道でもあるのであることは既に述べましたが、これによって自分の本質として存在する「内なる神性」を自覚する訳なのだから、こうしたプロセスから、信仰は人を磨くものだということが言えるのです。このことを踏まえて「10/07: 信仰を持つということ」を読み返していただけばより私の言わんとすることが理解していただけるのではないかと思います。
Posted by: tachibana
そもそも、人類と宗教についての本質的な関わりについて考えると、その起点は考古学者の研究による人類の文化の発生、あるいはそれ以前にあることは異論がありません。

歴史上の文化、あるいは文明の到達レベルの差は地球上において大変な格差がありますが、いかに未開の文化を持つ人たちでも、また全くもって野蛮な風習を保ち続ける人でも、信心の全くない人はおそらく見出せません。むしろそれどころか、プリミティブな文化を持っている人たちほど生活の中心軸に信仰がおかれることが少なくないのが現実です。

つまり、人はその誕生から「神々や女神を知るもの」として創造されたと言えます。ルターの言葉を援用すれば生まれたばかりの乳飲み子が何も教えられなくとも母の胸を求めるように、本来人間は神性を求める存在なのです。

それはなぜか、と考えると、宗教が教える神性こそ、人間一人一人が自己の内側に持っている本質そのものであり、意識、無意識を問わず「開放を熱望しているもの」だからなのです。ゆえに、宗教を学び、その修養を行う「信仰」は自己の内側に持っている本質である「内包する神性」に対する表敬の道であり、開放への道でもあるのです。こうした理由から人は神性を求める存在といえるのです。
Posted by: tachibana
幸福には大きく分けて二つの種類があります。それは「相対的な幸福」と「絶対幸福」です。

「相対の幸福」というのは、自分と他者を、あるいは現状と自分の希望を比較して、そこで満足できれば幸福、満足できなければ不幸という他者や周囲の状況などの外部要因と自分の欲求の比較に依存した幸福のことです。これでは常により良いものを求めてしまうのが人の常なので、相対の幸福は常に刹那的な幸福にすぎず、永続的な、あるいは安定した幸福状態には永遠になれません。

それに対して、絶対幸福というのは、何かと比較して得る「相対の幸福」とは根本的に異なるものです。ここで誤解してはいけないのは、「絶対幸福」というのは比較することをやめて、今の自分に満足することではないということです。比較することをやめたところで、自分で考えることを放棄したかのように現状に満足してしまったり、不満な状態なのに無理やり満足していると思い込んだりすることは幸福とは縁がない状態だからです。

絶対幸福というのは、周りや他人に依存することなく、「自分の中に幸福を創り上げること」で、同時にそれを育て、より大きなものにしていく喜びの中で得られるものなのです。それゆえに私たちは「相対の幸福」から脱却し「絶対幸福」を求めることが大切で、宗教たるもの、それが魔女の宗教であれ同じものが求められなければいけないのです。
Posted by: tachibana
宗教がこの地球上に幾つあるか、それはわかりません。なぜなら宗教団体として成立しているものの数だけでも相当な数に上り、その数は日々増えていますし、団体というほどではないものの数も合わせればそれこそはとんでもない数になりますし、第一それを正確に把握している人もいないからです。

もっとも、宗教と自称するものの中には実はかなり怪しい団体が存在することも悲しいかな事実です。そうした集団や団体は善良なる人から時間や財産、あるいは人生そのものを奪い取ってしまったり、社会に害悪をなす言動を行ったり、およそ本来の宗教とは相容れないものであることが多いようです。しかしながら、その中で活動している人たちはそれが神の教えであり、正しい道であり、人類の幸福に寄与していると信じ込まされてしまっているので、その過ちに気がつくことは容易ではないでしょう。

では、どのように宗教を見極めるべきでしょうか。もちろん、確固たる宗教的な知識があれば比較検討の上、自分にとって最適なものを選び取ることができるでしょうし、そうした意味では現実的な問題はあまりないでしょう。しかし、残念ながらほとんどの人にはこれは当てはまりませんし、それなりの宗教的体裁を整えている団体を相手にした場合、かえってその知識を逆手にとられかねないのも事実です。

それではどうしたらよいのでしょうか。実はその見極め方はいたって簡単なのです。

一つは、その宗教の信者が人間的に立派な人であるか、という点を観察するのです。その人が信仰している宗教が正しい宗教ならば、その教えに共感できるかどうかは別として、人間として尊敬に値するものを持っているはずです。もし、そんなに悪徳な宗教ではなかったとしても、その信仰を持つ人が尊敬に値しないような人物であったなら、その宗教は残念ながら人を磨くということすらできないもの、ということになります。

もう一つは「無条件に教えなどを信じなさい」という宗教を信じない、ということです。なぜなら、教義や教えなどをどんなに疑っても、本当に正しいものならば最後は疑いようがなくなります。そうなってから信じればよいのですし、本来それで十分なはずです。これはなにも宗教だけではありません。例えば、数学の公式を考えても同じことが言えます。その公式をどんなに疑っても、最後は正しいと認めざるを得なくなるのは自明です。これと同じものなのです。私が「疑って疑って疑いぬきなさい、それでも本物は残りますから。そして、その上で疑いようがなくなったら信じなさい」と口癖にしているのは正にこのことなのです。

もちろんこれは私自身に対する戒めでもあります。私は常に自分を見られることと、自分の信仰する魔女の宗教を見られることは同じだと考え、いつも自分の信仰するものに恥じないように、とどこまでできているかは別として思っています。
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