何年か前にイスラームの法学者の方と「伝統がいかに大切か」という話をしみじみとしたことがあります。また友人の仏教僧と伝統をどう活かしていくべきか、などという話で盛り上がることも時々あります。

伝統、と一言で言ってもその言葉の持つ意味は様々です。また伝統の持つ重みはどの視点で見るかで千変万化ともいえます。

宗教における伝統は人を育てる知恵の蓄積だといえると思うのです。もちろん他の側面もあるでしょうが、宗教の伝統というのは、その宗教に関わっていく人たちが人間的に成長するための経験に基づく知恵の蓄積なのではないかと思うのです。

伝統のある宗教の伝統には、宗教を問わず、程度の差や表現の差こそあれ、リーダーを育てる知恵があります。そしてそれはどの宗教でも、程度の差はあれどもその宗教の信仰者には等しく与えられるわけです。その上で、それをしっかりと自分のものにした人がリーダーとなる、というシステマティックな知恵の体系があるのだと思うのです。

このリーダーを育てる知恵というのは文字通りの宗教内でのリーダーという意味もありますが、それは社会のリーダーという意味もあります。そもそも本来宗教が考えるリーダー像は、自分が何も言わなくても、周りから尊敬され、この人のようになりたい、それにに続きたい、と思わせるような人格者であることによるリーダー像です。その意味では、宗教の伝統がもつリーダーを育てる知恵が等しく信仰者全員に与えられることは当然ともいえるでしょう。

さて、一般的な教師と宗教者とでは、同じ「人に何かを教える」ということを行った場合でも、本質的に大きな違いがあります。

例えば、学問などの場合は、教師はあくまでも学生よりも上なのです。だから、上から者を教える、という形でよいわけですし、それを当然求められます。学生の目線に立って、というのが大切だということもありますが、前提は絶対的に教師のほうが上である、という保証が求められるのです。その上で、学生の目線に合わせるのです。

ところが宗教者の場合はあくまでも対等の人間として語ることが求められます。圧倒的な知識量や経験があればあるほど、対等な人間として相手に向かうことが要求されるのです。この違いは、いいかえれば、教師は上に在る上で学生の目線に降りていくことが求められるのに対して、宗教者は「対等の人間として目の前に立つ」という前提の上で、「こんなに上に立てるだけの人なのに自分と同じ位置にいてくれる」ということを求められるのです。上にいけるものを身に着ければつけるほど上に行かないようにする事が求められる、という言い方もできるかもしれません。

もちろん、宗教にも知識の部分はあります。当然司祭が後進の司祭を指導する場合は教師的になる必要があるでしょう。でも、それが本質ではないのです。その辺の身のこなし方の知恵の集積がある意味宗教の伝統の中の大きなものとしてあるのかもしれない、と私は思っているのです。

私は常々、宗教者には、やさしさと謙虚さ、そして卑屈にならない強さと自分に対しての厳しさ、それだけがあれば十分だと思っています。その上で教義とか儀式とかその辺は好きにやればよいのであって、どんな宗教でも宗教者は自分をこのように戒めておけばよいのだけだと思うのです。宗教は所詮「人を活かす道」のひとつに過ぎないのですから。

そうした上で、宗教は「人を育てるもの」である必要があるのです。そして、その人を育てるための知恵の体系が宗教の伝統の中に蓄積された知恵の大きなひとつだといえるのです。