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Category: 伝統について
Posted by: tachibana
前回(去年の5月)書いた中で「伝統とは常に更新されなければならない」ということを書きました。そして、更新されない伝統派博物館の展示物のようなものにすぎず、古典的価値はともかくとして使い物にはならない、そんなものになってしまう、ということも書きました。

伝統を更新することについて多少の具体例を挙げて説明をしましたが、今度はもう少し大きな視点でこのことをもう少し書いてみようと思いました。

よく伝統や伝統を大事にする人、あるいはその行為自体を否定したり、革新もしくはそれに近いキーワードで古いものを時代遅れと決めつける人がいます。しかし、それは伝統を更新するのではなく、単に
「伝統を理解できずに反抗期の子供のようにいきがっているだけ」

というのがほとんどです。

そういう人にこういうことを言うと「伝統なんかわかっている。その上で自分たちはものを言っている(もしくは活動している)」というような反論をされることがままあります。しかし、そういう人に伝統をどれだけ知っているのかを具体的に問うと、伝統に触れた気になっているだけでまるでわかっていないということがほぼ例外なく言えてしまうことは歴史的に色々な世界で繰り返されたことです。

伝統を不勉強で知らないくせに知ったかぶりで新しい時代を語る人は今までも多く現れては消えて行ったのです。伝統を破壊したり、伝統を新しいものに更新するには、伝統を熟知していなければできないということに気が付かない。そして、そういう人は最後まで気が付かないのです。

こう断言すると反感や反対意見を持つ人は多いと思います。また、私のこういう姿勢を年寄りじみた古臭い考え、という人もいるでしょう。若い頃の私もそういうタイプだったのでよくわかります(笑い

でも、もし私の言うことを否定するなら、例えばですが、今でも60年安保闘争の学生組織が当時以上に健在でなければいけないということになります。彼らは古い体制(これはある意味伝統と同じです)を否定し、新しい体制を声高に叫び立ち上がっていたのです。では、今現在どうでしょうか。これを見ている人の何割が当時の主役たちのことを支持していますか、と問いかけたいのです。支持している、支持していない以前に、これを読んで下さっている人達のほとんどはせいぜい、歴史の教科書にあった気がする、程度でほとんど何も知りもしないのではないでしょうか。

これは伝統を無視したり、伝統に対して知ったかぶりして「革新性」や「新しさ」を旗印に伝統に対して戦いを挑んだ人たちの「完璧な敗北」に他なりません。歴史の中に埋もれ、誰にも見向きもされない革新、伝統はまだ「古臭いと言われつつ存在」していますが、その伝統に戦いを挑んだ革新はその存在と記憶すら消し去られているのです。

かくいう私も伝統などを「古臭いもの」と否定し、革新の名のもとに政治活動をしたこともありました。安保闘争の主流派の流れのセクトで活動したり、のちに(これは偶然でしたけれど)当時の全学連の委員長ら幹部だった方と一緒に仕事をしたこともあります。そうした実体験や、生の話、そしてその後の実情などをリアルに体験し、見聞きしてきたわけです。その経験から、彼らや私の敗因が「伝統を知らずに伝統に立ち向かったことだ」ということを色々な角度から検証することになり、それを痛いほど実感しました。

一時の熱狂は簡単です。
それを創るのも簡単です。
また、それはとても新しく、活発で未来に続く素晴らしいものに見えることがあるのも事実です。
また大変勢いがあり、華やかにも見えるでしょう。

でもそれは歴史の中に消えていくあだ花に過ぎないのです。
根のない花はやがて無残に枯れていくのです。

結局、伝統をしっかり学び、伝統の中にしっかりと入り、伝統の堅苦しさやくだらないしきたりなどを経験し、伝統を熟知するという経験をしていない限り、伝統を乗り越えたり、破壊したり、ましてや更新して「新しい伝統を創る」ことなどできないのです。

これは魔女の世界というだけの話でなく、文学、芸術、学術、宗教、政治等々、どんな分野に対しても共通して言えることなのです。そしてそれは歴史がそれを雄弁に語っているのです。

私はあらゆる分野において声高に呼びかけたいのです。

「若人よ、伝統を謙虚に学び尽くし、知り尽くし、そして新しい伝統を創り出せ!」

と。

(3に続く)
Category: 伝統について
Posted by: tachibana
何回かに分けて、伝統というものを私がどう考えているかを書いてみたいと思います。

伝統を受け継ぐというのは、簡単にいえば「先人達が今まで積み重ねてきたものを受け取る」ということになります。そこまではだれもが問題なく納得できるところなのですが、問題はそのあとどうするか、だと私は思うのです。

魔女の伝統には「伝統を削ってはいけない。足していくのは大切」という考え方があります。

これは非常に大切な考え方で、伝統というものは絶えずその時代に合わせて更新されるべきものであって、古臭いものを金科玉条として守っている、というものであってはいけないのです。

たとえば、トランプ占いのカードの意味に「手紙、電報」いうのがあります。これはやがて「手紙、電話(時に電報)」と変化し、今だったら「メール、チャット、電話」とする方が読みやすいでしょう。このように伝統的なものせ時代に合わせて変化させていく必要があるのです。しかし、今の例はある本から取ったのですが私はちょっとこれでは問題があると思います。と、いうのも、今の時代だからと言って手紙がなくなったわけでも、電報がなくなったわけでもありません。事実郵便局は毎日大量の手紙を扱っているわけですし、つい最近、私も電報を受け取る機会がありまして、やはりこれだってなくなっていないのです。だから、本当は、

「手紙、電報」→「「手紙、電報、メール、チャット、電話」

というように「意味を足していく」のが正しい在り方だと言えるのです。

伝統というのはこれに似たものがあります。わかりやすい例でいえば、伝統的なレシピの中には現代では手に入らない材料が指定されていることも多々あります。こうしたものは、まだ手に入る(しかし、手に入りにくくなった)時代の先人が色々と比較検討をして、代替品となる材料の指定を残してくれています。そして、現代ではその代替品の方だけが現実的なものとして使われています。もちろん、同様なことが現代にもあれば、今現在伝統を継承しているものがそれと同じ努力をする責任があるわけです。

また、より効果的な方法が見つかることもありますし、より簡単な方法が作られることもあります。こうした時も元になるものはしっかり残したうえで、そのどれをどう変えたかを明示しておくことで、新しい伝統が継ぎ足されていくわけです。これは自然科学でも同じ方法が取られているので、理解しやすい考えだと思います。

このように伝統というものは古いものを大切にしつつ、新しいものを加えていく、という常に更新されるものでなければならないのです。そうでなければ、伝統というのはただの博物館の展示物にすぎなくなってしまい、使い物にならなくなってしまうからです。
Category: 伝統について
Posted by: tachibana
何年か前にイスラームの法学者の方と「伝統がいかに大切か」という話をしみじみとしたことがあります。また友人の仏教僧と伝統をどう活かしていくべきか、などという話で盛り上がることも時々あります。

伝統、と一言で言ってもその言葉の持つ意味は様々です。また伝統の持つ重みはどの視点で見るかで千変万化ともいえます。

宗教における伝統は人を育てる知恵の蓄積だといえると思うのです。もちろん他の側面もあるでしょうが、宗教の伝統というのは、その宗教に関わっていく人たちが人間的に成長するための経験に基づく知恵の蓄積なのではないかと思うのです。

伝統のある宗教の伝統には、宗教を問わず、程度の差や表現の差こそあれ、リーダーを育てる知恵があります。そしてそれはどの宗教でも、程度の差はあれどもその宗教の信仰者には等しく与えられるわけです。その上で、それをしっかりと自分のものにした人がリーダーとなる、というシステマティックな知恵の体系があるのだと思うのです。

このリーダーを育てる知恵というのは文字通りの宗教内でのリーダーという意味もありますが、それは社会のリーダーという意味もあります。そもそも本来宗教が考えるリーダー像は、自分が何も言わなくても、周りから尊敬され、この人のようになりたい、それにに続きたい、と思わせるような人格者であることによるリーダー像です。その意味では、宗教の伝統がもつリーダーを育てる知恵が等しく信仰者全員に与えられることは当然ともいえるでしょう。

さて、一般的な教師と宗教者とでは、同じ「人に何かを教える」ということを行った場合でも、本質的に大きな違いがあります。

例えば、学問などの場合は、教師はあくまでも学生よりも上なのです。だから、上から者を教える、という形でよいわけですし、それを当然求められます。学生の目線に立って、というのが大切だということもありますが、前提は絶対的に教師のほうが上である、という保証が求められるのです。その上で、学生の目線に合わせるのです。

ところが宗教者の場合はあくまでも対等の人間として語ることが求められます。圧倒的な知識量や経験があればあるほど、対等な人間として相手に向かうことが要求されるのです。この違いは、いいかえれば、教師は上に在る上で学生の目線に降りていくことが求められるのに対して、宗教者は「対等の人間として目の前に立つ」という前提の上で、「こんなに上に立てるだけの人なのに自分と同じ位置にいてくれる」ということを求められるのです。上にいけるものを身に着ければつけるほど上に行かないようにする事が求められる、という言い方もできるかもしれません。

もちろん、宗教にも知識の部分はあります。当然司祭が後進の司祭を指導する場合は教師的になる必要があるでしょう。でも、それが本質ではないのです。その辺の身のこなし方の知恵の集積がある意味宗教の伝統の中の大きなものとしてあるのかもしれない、と私は思っているのです。

私は常々、宗教者には、やさしさと謙虚さ、そして卑屈にならない強さと自分に対しての厳しさ、それだけがあれば十分だと思っています。その上で教義とか儀式とかその辺は好きにやればよいのであって、どんな宗教でも宗教者は自分をこのように戒めておけばよいのだけだと思うのです。宗教は所詮「人を活かす道」のひとつに過ぎないのですから。

そうした上で、宗教は「人を育てるもの」である必要があるのです。そして、その人を育てるための知恵の体系が宗教の伝統の中に蓄積された知恵の大きなひとつだといえるのです。
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