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Category: 教育
Posted by: tachibana
教育についても少し書いてみようかと思い立ちました。
今回は昨今の英語教育についての話。
異論反論はあると思いますが、メールでも、掲示板でも、そういったご感想も含めていただければ幸いと思います。

大抵の日本人は英語を中・高と6年も学んでいますが、どうも「英語が使える」というレベルの人は少ないようです。就職情報誌などの募集広告の応募資格の中から「大卒以上」という記述がほとんど見られなくなってからもうかなりの年月が経ちますが、これは「大卒でなくてもよいという企業が増えた」という事ではなく、「大卒が当たり前になったのであえて書く必要がなくなった」という事情によるものです。と、すると、多くの日本人が中・高・大と8~10年英語を学んでいるのにろくに使えない、ということです。

それでも「英語を使える」という人はやはりかなりの少数派です。事実、英会話スクールや英語教材の広告が大量に出回っている事、その受講生のかなりの割合が大学卒業以上の人で占められているという事実は、それがいかに深刻化を証明しているといえるでしょう。

ところで、昭和60年改定から始まり、学校の週休2日の定着で一応の完成を見た「ゆとりの教育」は私が大宅壮一を交霊術で呼び出して、「一億総白痴化(1957年2月)」と言い放った貴方は、現状をどう表現しますか、と聞いてみたいほどの、惨憺たる現状を生み出しました。

また、「音声重視」「習うより慣れろ」といった英語教育が主流になり、文法の教科書は検定教科書から除外され、「読み書き重視」から「聞く話す重視」へと極端に傾斜し、英語教育から理屈の部分が大幅に削除されてきました。また、大学入試もセンター試験の音声試験導入を機に、一気にこの傾向への傾斜に拍車がかかりました。

しかし、私は素朴な疑問を覚えるのです。
いくら国際化が叫ばれていたとしても、現代の日本で「英語が話せなくて困った」という経験をする人のパーセンテージはそんなに上がったのだろうか?ここ1年で英語が話せずに本当に困った、という人はどのくらいいるのだろうか?英語を使う仕事についておられる片ならともかく、ほとんどの日本人は「英語が話せなくて困った」という事態に陥った経験というのは大して増えているわけではないのではないだろうか?と思うのです。それに反して「英語が読めなくて困った」という人は意外と多いのではないかと思います。また、インターネットがここ数年で一気に普及率を上げ「インターネットという文字の世界」の第一言語が英語であるということから「英語の読み書きの必要性」を身近に感じた人はかつてより桁違いに増えているのではないか、と思うのです。

英語の読み書きを求められることは家庭の中にまでインターネットを通じて入り込んでいますが、いきなり自宅に毎日外国人が来て英会話を必要とする、という事態はほとんどの日本人には無縁なのではないでしょうか。そう考えると、学校教育の音声重視への極端な傾斜や、英会話学校の隆盛などは、広告などによって踊らされて「必要性を感じさせられているだけ」で、実は多くの日本人にとっては「読み書き」の方が依然と必要な英語力なのではないかと思います。

また、この音声重視、会話重視の傾向は、英語学習を薄っぺらなものにしているという側面もあります。この20年は受験参考書を筆頭に、書店の学習書の棚から分厚く骨のあるハードカヴァーの本を、薄っぺらなソフトカヴァーの本を駆逐した20年と言えますが、語学の分野においてはそれがことさら顕著だといえなくもないと思います。また、薄っぺらなもので何とかしようとすれば、当然冊数が必要になり、出版社や教育産業の業者には大変なうまみを提供しているのも事実です。ですから、「売り手側」としてはどんどん読者や利用者が低レベルになってくれればくれるほど儲かるというのも実情でしょう。それでも「質の悪いものは消費者に受け入れられずに自然淘汰される」という信念の元、「大衆は賢い」という世迷いごとを言う人もいますが、実際に駆逐されているのは商業主義とは無縁の血の通った本であり、良書が悪書に駆逐されている、という現状です。そう考えると「大衆」という言葉が「愚民」という言葉と同値のものに感じてしまいますし、私からしてみればまったく同値の物に見えてしまっています。

閑話休題。
ともかく、英語の読み書きができれば事足りる人が実際には圧倒的多数を占め、また、読み書きがきちんとできる人なら音声教材や英語のラジオ放送などを聞いていれば「聞く、話す」という能力はそんなに苦労しなくても身につく、という事実を考えると、やはり外国語というものは「読み書き」にしっかりと取り組むべきものだと思いますし、それが「読み書き聞く話す」という4方向の能力を身につける最短かつ確実な方法だと信じます。

ただ、それは商業主義とも、努力をできるだけ廃して「楽にマスターしたい」(気持ちはわかりますが)という需要とも対極をなすので時代と共に受け入れられなくなっていくのも理解はしています。

最後に1冊の本について書いておきたいと思います。
それは「ダボス会議で聞く世界の英語」(鶴田 知佳子、柴田 真一 著 コスモピア刊)という本です。

この本の価値はそのCDにあります。26カ国、その多くが英語を母国語としない人たちの英語スピーチです。各国語に由来する独特の訛り、しかし、どの英語にも気品と格調があるのです。著者がその中で語る「世界各国で話される多種多様な英語はすべて同等」という考え方には感動を覚えます。これは音声教材をメインとした本でありながら「音声重視」の英語教育に対する強烈なアンチテーゼでもあります。「ネイティブらしく英語を使う」ことなどという「くだらない妄想」など早く捨て去って、堂々と「自分の英語」を話せばよいということを実感させてくれます。そして、自分の英語とは「日頃自分がなにをどう考えているか?」であり、「どれだけ英語で書かれた本を読んでいるか?」であり、「どれだけ自分で英文を書いているか?」であり、なんといってもノンネイティブの英語をネイティブの英語に「近づける」こととは無縁だということを各発言者の「格調ある英語」が私たちに教えてくれます。真のグローバル化とは何か?ということをこうしたものを材料にしっかり考える力こそ、私たちの英語教育にとって最も大切なものだとあえて断言して結びとします。

※今回から本を紹介する場合にはアマゾンのアフィリを導入することにしました。ここから発生するアフィリ報酬は全額児童福祉施設など必要とされるところへの寄付とさせていただきますので、もし興味をお持ちになられましたらぜひよろしくお願いします。





Category: 教育
Posted by: tachibana
先日本屋にいって思ったのだが、専門書のコーナーが最近大きく様変わりしている。少し前までの専門書コーナーはどの分野でも文字がびっしりと詰まって行間が狭い本のオンパレードだったが、最近は行間が広くイラストの多いものがいきなり増えてきている。

例えば、量子化学の分野でもノーベル化学賞を受賞した福井博士門下の「量子化学入門(化学同人社)」が初級者が読める専門書の代表格であったし、それを学ぶ前に分子軌道論をきちんと抑えるには久保昌二先生の「原子価と分子構造(丸善)」を読むのが現実的には最良であった。

しかし、それらの本もかなり手ごわく、うなりながら計算式を書き写し理解していったのを今も懐かしく思い出す。ところが、先日「数学いらずの分子軌道論(化学同人)」なる本が平棚に積んであり、思わず手に取ると本当に四則演算くらいの計算しか出てこないとんでもない本であった。帯にもあるように「数式を使わず、図と概念だけで理解する」ということを目標に書き上げられていた。

思わず買って帰り、家でじっくり読んでみると、なるほどうまくまとめてある。しかし、どこかで見たことがある気がしなくもない。よくよく考えてみると、1990年代に入ってからいきなり増えたイラスト多用でなるべく軽薄短小にまとめて、さらに「やさしく書くこと」を売りにした大学受験参考書と同じ雰囲気ののりなのである。

なぜそういう流行が学習参考書の世界に起こったかといえば、文部省が「ゆとりの教育」を導入したことにある。これは「ゆとり」と称して若者の学力を大幅に奪った歴史に残る国家の愚行ではあるが、出版社としてはそれに迎合しなければ企業の生き残りができない、とまでは言わなくてもそのくらいに深刻な事態になったのである。結果、1990年代はそれまでの定評のある、そして筆者の個性がしっかりと反映された血の通ったハードカヴァーの参考書を、軽薄短小を売りにしたイラスト多用のお手軽参考書が駆逐したときであり、その流れは今も加速しているのだが、考えてみればそうした本で大学に進んだ人たちが求める本は、当然大学受験時と同じ「軽薄短小な専門書」になるのは良いかどうかは別として、必然的な現象として納得できる。

出版社もしっかりした本を出版し、文化に貢献するよりは、若者を甘やかし、自分で何もできない大人に育ててしまう結果になろうとも、売り上げの上がる本を大量に出して利益を上げなければいけないというのは、ある意味いたしかたないのもわかる。事実、誰でもが知っている老舗の大手出版社が書籍を出すときに初版が1000部に満たない、などという厳しい現実があるのだから、利益優先を毎年新しい需要のある学習参考書の分野で追求したとしても、それを責められるものはいないだろう。

是非はともかく「読みやすさ重視」の参考書の世代が求める専門書、ということで、専門書の分野にも軽薄短小の波がついにたどり着いてしまった、という事実を目の当たりにした気がした。気になって調べてみると、そうした本の出版点数がここ数年大幅に伸びていることにも遅まきながら気がついた。こうした本ばかりをいくら読んでもそこで育つ専門家の質はたかが知れる。

しかし、同時に活字だらけの難解な本をうなりながら読み込んだ「甘やかされなかった学者」しか、難しいものをやさしく書くことはできないのも事実なので、20年もすれば出版社も筆者不足に悩むようになり、孫引きや孫引きの孫引きなどのオンパレードにせざるを得ない時期が来るだろう。そうしたときにコツコツと地道な努力をしてきた学者がまた日の目を見るのだろうか。

とりあえず、学術書と大学受験参考書の流れの批評は別として、くだんの「わかりやすい専門書」についてなのだが、手元にある「数学いらずの分子軌道論(化学同人)」を見て思うのは、やはり「よく書いたなぁ」あるいは「よくできてるなぁ」である。受験参考書のときもそうだったが、こうした流行が出てきて10年ほどは結構質の良いものが出てくるので、ここしばらくは専門書のコーナーが楽しそうである。これを読んで専攻学問を学んで専門家になった気分になられても迷惑だが、専門家でない人が、もっといえば素人が専門分野を学ぶには非常に良くできている。それに何と言っても面白い。ためしに違う著者の類書も数冊読んでみたがどれもそれなりに良くできている。その昔、一般の人でも読める専門書というと梶原先生の数学の「独習シリーズ」くらいだったが、こうした本が出てくることは中学、高校生のうちから大学で学ぶことを学ぶ機会を提供することになるし、社会人になって勉強からとんとご無沙汰してしまった人が勉強を始めるきっかけにもなるだろう。

そういう意味で使う人や使い方によっては、案外この流れは歓迎すべき傾向なのかもしれない。どうせなら出版社ももっと売り上げを伸ばすためにこうした本の「読者層を増やす」努力をされてみたらよいのではないかと思った。大学受験の参考書は大学受験生や高校生しか読者層を基本的に持たないが、「よみやすい専門書」なら色々な読者層を想定できるだろうし、知的水準の向上にも大きく寄与するだろう。そして、一般の人がこうしたものを読んで楽しめば、専門家はまた文字がぎゅう詰めの専門書に戻らざるえなくなって一石何鳥にもなる。

とりあえず、皆さんも自分が縁がない分野と決め付けていた分野の専門書コーナー、ちょっとのぞいてみてはいかがだろうか。
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