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06/17: WEN NEWS No.3

Posted by: tachibana
 WEN NEWS No.3を一足先に拝読しました。

 長文の書評が秀逸でした。楠瀬さんならでは、というか楠瀬さんにしか書けないというか、というオリジナリティあふれるものになっています。魔女に興味のある人なら魔女関係の本の読み方を示唆してくれる意味でも必読です。

 ちょっと難しいだろうな、と思う所も何か所かありました。よくわからず誤解してしまう可能性があるかもしれないと思う所もいくつかありました。でも、おそらくその難しさは魔女として色々と悩んだり、自問自答したりという経験の量がある程度ないと理解が難しいだろうな、という意味での難しさだと思います。もちろん、ただの量ではなく質量ともにの量なのはいうまでもありません。逆に私のように道のりや歩き方は違えどある意味「同じ時間」を歩いてきた身としてはそこが面白い所でもあったのですが。とはいえ、そこは楠瀬氏の文章力。「理解しよう」という意志で何回か読み返せば経験が浅い人でも理解できると思いますが、そこはちょっと老婆心。

 老婆心ってなんで老婆の心なんだろう?という疑問は前にも何回か持っていたのですがなんとなく素通りして今まで調べたことなく、また、その疑問も忘れてしまっての繰り返しでした。国語辞典を引いても意味しか出ていない。大辞林を紐解いたら「仏教からの言葉。年取った女性が度を越して気を遣う事から」というのが語源らしい。たぶんそういう話(説話?)があるんでしょうね。

 ※と、書いてから気になったので友人の僧侶に質問したら景徳傳燈録という禅宗系の出典が元だという事を教えて頂きました。それを手掛かりに調べてみたら北宋(日本では平安後期にあたります)の仏教書だそうで、その中に「老婆心切」という言葉が出てくるのだそうです。これは「老婆が子や孫を慈愛深く世話をするように、仏道修行者が、志を同じくする同輩の修行者に気を遣うこと」という意味で、本来は「篤い気遣い、思いやり溢れる親切」というような意味だったようです。日本に伝わって江戸時代(のおそらく元禄時代くらい)に「切」がとれ現在の「老婆心」になったようです。お蔭様ですっきりしました。

 糸口が捕まればこうやって素人でも調べられますが、その糸口はやはり専門の方に伺わないとなかなかつかめるものではありませんね。感謝至極です。

 閑話休題。

 もう一つの記事である「道に迷っている魔女へのアドバイス」

 これはある程度魔女としての活動あるいは魔女志願者としての活動をしながら道に迷った人に対して非常に実践的に役立つ素晴らしいアドバイスだと思います。

 楠瀬氏自身がツイッター(2017.6.15)で「私が英語で発表した一連のアドバイスを元に書いた記事ですが、もともとのアドバイス集は某国の巨大ペイガン・ネットワーク会長を務めた友人から、「これはどのペイガンにとっても素晴らしいアドバイスだと思うよ!」と言ってもらったものです。」とツイートされていますが、私も全く同意見です。

 さて、これ以上ここで色々書いてしまうとこれから読む人の楽しみと、驚きと発見の邪魔をしてしまいますのでこれについてはここまでにしておきます。ぜひこれを読んだ方と読後の話をしたいな、と思う記事でした。

 と、いうわけでこの辺で。
Posted by: tachibana
ツイッターでも書きましたが、東京(新宿か渋谷当たり)で「ペイガンの伝統的魔女になるには」という感じのタイトルで、私の体験を元にペイガンの伝統的魔女になるにはどんなことを学んでおくといいか、何をすると良いかなどの単発講座(?)をやってみようかな、と思っています。

もう少し具体的に言うと、イニシエイションを受ける前にどんなことを学び、どんなことを訓練しておくとよいか、というようなことを体験を元にお話ししてみるというのも面白いかもしれない、と思い始めたのです。魔女になりたいという人(ここではペイガニズムの魔女に限定しての話ですが)が

・先づ何をしたらいいのか?
・どんなことを学んでおくといいのか?
・イニシエイションを受けるにはどうすればいいのか?
・そもそも自分はペイガニズムの魔女に向いているのか?
・イニシエイションの失敗について

等、そろそろ人前で話をしてもいい頃かな、と思ってきたという方が適切かもしれません。
私は今まで人様の前で色々語るのもおこがましいかな、とも思っていたのですが、自分があとどのくらい生きるかな?と考えた時、そろそろ語っておいてもいいだろう、という気持ちになってきたという言い方の方がより正確なのかもしれません。

また文章では伝えられないものが細かい所(でも割と大切なこと)で結構最初からあったりもします。
そんな話をするのも誰かの役には立つかな、と思っていたりもします。

費用はは実費だけと考えています。
たぶん1000~2000円くらいかな、と思っています。
資料代とか場所代の一部、という感じです。

これから細かい所を詰めて行こうと思います。
今後また色々決まり次第、このブログやツイッター等で告知させて頂く予定です。
Posted by: tachibana
「鐘は小さく叩けば小さく鳴り、大きく叩けば大きく鳴る」

という言葉があります。

この言葉の解釈、ためしにネットで検索したら色々なものが出てきます。
中には「人にものを頼んだり人物の大きさを知りたいときに大きな仕事を依頼してみれば、その人の大きさがわかる。小さい仕事ではみんなができてしまうのでわからない」などという人を試す方法だという斬新な(?)ものもあり「よくもまぁ、色々と考えるものだ」とあきれるを通り越して感心してしまいました。

さて、そんなことに感心していても仕方ありません。
そもそもこれは坂本竜馬が西郷隆盛を評して勝海舟に述べた言葉で、

「西郷は馬鹿である。大馬鹿である。小さくたたけば小さく鳴り、大きくたたけば大きく鳴る。その馬鹿の幅がわからない。残念なのは、その鐘(かね)をつく撞木が小さいことである」

というもの。

しかし、この「小さく叩けば小さく鳴り、大きく叩けば大きく鳴る」というのは意外と難しい。
と、いうのも人間、自分が得意なものだったり、自分が熱心に打ち込んでいるものであっりりするとどうも

「鐘を小さく撞かれても、ついつい大きく鳴ってしまう」

というのが多いものだからです。
大きくなってしまう理由はいくつかありますが、

1つは人間得意なものにはつい饒舌になるもの。得意心からなのか、親切心なのか、おそらくそのないまぜがほとんどなのでしょうが、小さく撞かれたのに大きく鳴ってしまう。
2つ目は撞いた相手の力量も考えずに大きく鳴ってしまう。
そして3つ目は相手のこともお構いなく、自分のこともお構いなく、それこそ熱心などこぞの信徒がちょっとしたきっかけを見つけたら人に喰いついて離れないぞといわんばかりに熱烈に布教するかの如く、自分の打ち込む物に対する熱心さゆえの暴走。
他にも見つけるつもりならあるでしょうが、まぁ、大体この3つが大きな理由でしょう。

いづれも良くて有難迷惑、現実はた迷惑。

一見似ていてもこの原因、各々その根本は違っていたりします。
1つ目の根本にあるのは、傲慢、あるいはそこまで行かなくても謙虚さの欠如。大体は人の時間を不必要に奪うか、あるいは相手に自分で疑問を持つという能力を奪いかねないもの。
2つ目の根本にあるのは、人を思う気持ちの足りなさ。例えばこれを教師や親がやると手取り足取りやりすぎて何もできない子ができてしまうのと同じ。
3つ目の根本にあるのは、単純な自己中心性。これはなかま欲しさからなのか自分の寂しさを埋めるため、あるいは自分の達成感を得んが為等々。

しかし、どれも誰もが陥りがちなものであるのも事実です。

私自身、どれもかつて痛いほど身に覚えのあるものばかり。
「若さとはかように恥ずかしきもの」などと、格好つけてみた所で反省しきりであることもまた事実です。
それでも、この20数年はこの言葉を常に意識しつつ、それでも日々反省しつつという感じに過ごしてきました。
年と共に1つ目3つ目はさすがになくなってきましたが、それと同時に2つ目はこころする必要が増えてくるのも事実。相手の事を思っているつもりで実は相手の可能性を潰してしまう危険というのは年とともに増えるものなのかもしれません。

逆もまた同じ。
大きく疲れても小さくしか鳴らないのは、大体がけちか自称謙虚、実は卑屈の現れ。

なかなか素直な大きさというものは難しいものです。
いつかは自分に「鐘のようであれ」ということなく、自然体で鐘のようにあることができるようありたいと思っています。




Posted by: tachibana
とある所で、とある人達の対話を横で聞いていて思った事ですが、誰しも人の欠点を(陰で言うのはともかくとして)面と向かって真摯に言うのはなかなか難しいものだと思います。難しいだけでなく、言う方にもデメリットがかなり出る可能性もあるし、そんなことを考えると子供に大人が注意することはできてもある年を境にだんだん言えなくなってきます。

これは同時に逆のことも言えます。
ある年齢までは自分の欠点などを注意してくれる人も多くいます。
しかし、ある程度の年齢になってくるといきなりみんな言ってくれなくなります。
まぁ、当然です。
そして、いつの間にか自分の周りから人が消えていく、というのもよく見る光景です。

どちらも仕方がないことなのは間違いありませんが、ある種の人の業というか、寂しさのようなものを感じるのもまた事実。

私などは一般的レベルから考えるとかなりずけずけと言ってしまう方なのですがそれにはそれなりに酷い目にもあってきましたし、摩擦も摩擦などというレベルでなく経験してきました。もちろん、そのために絶交状態になってしまった人も少なくはありません。

ただ、今思い返しても間違ってはいなかったな、とも思うのです。間違ってなければよいというものではないとも言えますが、間違っていないならある意味あきらめもつきます。

・・・と、いろいろ考えてみた結果、結局私はそういう性分、という事なのだろうな、と。
雨にも負けずではないけれど、

自分の悪いことろを遠慮なく口にしてくれる人は大切にし
納得できなければ反論し
それが誤解なら誤解を解き
指摘が正しければ素直に認め正し
人の問題点は必要ならば指摘し
共に正し
正しいことは正しい、悪いことは悪いと率直に口にする

そういう人になりたかったわけではないけれど、そういう性分を貫くことに結果的になってしまったな、と。
でもまぁ、ここまで来ると存外そういう自分を嫌ってもいないので、これはこれで良いのだろうと思っているのもまた事実。

とかく人は性分には逆らえないもの、などとうそぶくのも我流の粋なのかな、と思ったり、思わなかったり。
Posted by: tachibana
英語等、ヨーロッパ系の言語を勉強していると結構「バイブルに依る言い回し(あるいは本当の意味でのイディオム)」が結構出てきます。アラビア語などを勉強しているとこれまた当然のように「クルアーンによるもの」が多く出てきます。つまり、こうした外国の言語を勉強するときはそのエリアで支配的な宗教の教典を知らないと意味が分からないものがそれなりにある、という事になります。

そう考えた時、日本語ってそういう宗教に根差した言い回しって少ないですね。知らなくてもどうにかなります。でも、逆に言うとそれはかなり特殊です。交換か得れば日本のように無宗教的な考え方がいかに世界ではマイナーなものかが簡単に理解できると思います。

日本人はもっと宗教というものについて学び、宗教についてのGHQの植えつけたアレルギー反応を克服しなければ、いくら経済大国になろうが、何しようが本当の意味で国際社会を理解することができませんし、ある程度以上の信頼や尊敬を獲得することが難しいのは当然です。

一人でも多くの人が「何かの宗教を」ではなく、「広く宗教を」学んで欲しいといつも思っています。
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