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宗教が基本になる集団やそうした人たちによるコミューンは、宗教イデオロギーが多かれ少なかれそこで暮らす人たちの生活の中にはいってきます。
もちろん、「1-3 宗教都市論 序論」でも述べましたようにそうしたイデオロギーに基づいた倫理観の共有が非常に大切なのですが、日常生活にどの程度そのイデオロギーが入り込むべきか、という問題があります。
例えば、生活に入り込むイデオロギーとしては食事の問題が例として挙げられます。イスラームの「豚肉を食べることに対する禁止」などは、イスラームの誕生したエリアや時代背景を考えると非常に納得がいくものです。確かにあの時代にあのエリアで豚肉を食するということは、食中毒などの問題からも大変危険なものでした。
しかし、現代の日本で食べ物に対するタブーというのはどのくらい意味があるのでしょうか。例えば魔女の宗教の信奉者にはベジタリアンが多くいます。そこで私も時々「なぜベジタリアンにならないのか」といわれることがありますが、狩猟の神を崇めるところから始まった伝統から考えればきわめてナンセンスです。私からすればあれは「極端な好き嫌い」としか思えません。
また、マクロビオティックなども、個人が趣味で実践する分には良いと思いまずが、自分以外に進めるようなものでもないと思います。宗教学者の島薗進が「マクロビオテックは実質的に宗教である」と指摘していますが、まったく持ってその通りで、ましてや、欧米から逆輸入されたものは単なる宗教もしくは思想のひとつでしかないといえます。「肉食用の動物を育てるのにどれだけの穀物が必要になるか、その穀物を食用にまわせばどれだけ飢餓の問題が解決できるか」ということを主張されることもありますが、これはまったくナンセンスな話です。極端な例がわかりやすいので、極端な例で言いますが、仮に全世界の人間が肉食をやめた場合、その飼料となっていた穀物は生産量を変えずに、飢餓の解消のために使われるか、といえば誰が考えてもありえません。なぜなら、それでは経済的に穀物農家が成り立たなくなって転職してしまいます。
第一、菜食主義というもの自体人間の傲慢さの表れだといえます。人間が生きていくためには、他の生物を食べていくしかありません。それなのに「動物を食べるのは良くないが植物なら良い」という発想は、そもそも人間が一番上にあるという前提で動物の命と植物の命に軽重をつけていることに他なりません。動物を食べないことがやさしいことだというなら、全ての生命を公平に扱い、命あるものを食べなければよいのです。そうやって栄養失調で死んでしまっても、それが死に様だ、というなら納得できますが。そこまでできない人が動植物の命に軽重差をつけることは傲慢以外のなにものでもありません。そういう思想こそ差別主義思想だといえます。
かといって、食べ物は何でもよい、と完全にしてしまうのも問題があります。例えば、あまりに時期はずれの野菜などを常食していると健康に決してよい影響はありませんし、化学合成品の調味料などを使うことも緩やかな自殺と言えなくもないからです。例えば化学調味料の中には石油から作ったものもポピュラーなものにいくつもあり、そうしたものが体に良いわけがないからです。
そうした意味で、ある程度の緩やかなガイドライン、つまり自然に従ったガイドラインは必要だと思いますが、それを超えるものは必要ないのです。わかりやすい例として食料の例を挙げましたが、このような「緩やかなガイドライン」を必要とはするものの、衣食住などの日常生活の中にイデオロギーは宗教都市などであってもできる限り抑えて、個人の好みを尊重することが大切です。
実は日本人には「イデオロギーと生活のバランス」という問題はかなり民族的に苦手な領域だという見方もできるほどのテーマでもあるのですが、それだけに意識をしておくことが大切なのです。
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