| トップ | | このサイトについて | | ラヂヲのページ || ブログ | | メール | 
■宗教とは何か
 1.宗教を形から捉える
 2.信教の自由

 


1.宗教を形から捉える

 いくつかに分けて宗教についての私の考え方を書いてみようと思います。今回は「形」から見た私の宗教についての考え方です。

 私は宗教というのは、基本的には自然科学では解明できない「色々ななぜ?」について答えを用意するものだと思っています。

 例えば、「なぜ、ここに生まれたのか」「なぜ、人は死ぬのか」「私はなぜ苦しまなければいけないのか?」などです。しかし、こうした疑問に客観的に答えることは人間にはできません。これは、宗教を「文字通り」に捉える人には怒られるかも知れませんけど、宗教というのは、個々の人にあわせて(人はみんな違いますから)、そういった「なぜ?」に対する答えを「仮説」として提供していくものであり、その仮説同士が矛盾を起こさないように組み上げられた、時として壮大な仮説体系であるといえると思います。

 ですから、ある人にとっては、その「仮説や仮説体系」は、Wiccaやクラフトのものが一番しっくりくるかもしれません。また、ある人にとってはキリスト教やイスラームのそれかもしれません。そして、自分にあった仮説体系を祈りや儀式といった宗教体験によって、自分にとっての現実として体感していくもの、逆にいえばそれだけのものなのだと思うのです。

 もちろん、仮説体系とはいえ、それを受け入れた人にとってはそれが真実そのものに感じるでしょう。もちろん私も私の信仰する宗教体系は「自分にとっての紛れもない真実」とし「実在」しています。しかし、それはあくまでも「自分にとっての真実でしかない」と、いうことを忘れてはいけません。ここで、「自分にとっての真実でしかない」ものが、「万人のための真実であるべき」となってしまうのが、カルトはもとより、多くの宗教の犯した間違いがあるのだと考えています。

 宗教者である私が、こういうことを言うのもどうかと思いますが、宗教というのはそれが「宗教」である限り、どんなに後の世で「絶対の真理」になるであろうものであっても、しょせんは「形而上学上のもの」にすぎません。宗教は宗教であるといっている以上、「仮説体系」の域を出ないのです。ですから、間違っても「これこそが絶対正しい」などということを人に押し付けることはできるはずがないものなのです。

 いわゆる「宗教的絶対」や「宗教的真理」というものはあくまでも「自分にとっての絶対」あるいは「自分にとっての真実」でしかなく、それを広げたとしても「信仰を共有する集団内」という「閉じられた世界における真理」でしかなく、「閉じられた世界における絶対」でしかないのです。これを勘違いした時にどんなに良い教えでも諸悪の根源になってしまいます。そしてこれは同時にその「閉じられた世界」の中でさえ、罪悪になってしまうのです。なぜなら、そうした「絶対」や「真理」を誰にでも当てはめようとする人はその瞬間に「謙虚さ」という大切なものをなくしてしまうからなのです。

 ですから、そうした謙虚さを常に持ちつづけた上で、自分なりの宗教観を一人一人が持てばよいのだと思います。私個人の宗教観は別として、私は私の弟子にさえ、弟子が自分の宗教観を確立できるまでは私自身の宗教観を話さないことがあるくらいです。そのくらい宗教とは個人のものだと思っています。誤解を生むといけないと思うのでもう少し言い換えれば、自分の信じる宗教の考え方や、そこで展開される仮説体系を弟子に教えることはもちろん私も行います。しかし、それを自分のものにするまではしっかり考えてもらわなければいけないのです。つまり、それが自分にあうものなのかどうか、という点を、です。

 そして、各々が自分の宗教観が確立できた上で、お互いの宗教観を語り合い、その中からよりよいものを創り出して行く、これが本来の信仰者としての姿だと考えているのです。

 余談ですが、幸いこの考えは異教徒の方にも受け入れてもらえるようで、もう何年も前になってしまいましたが、イラクの戦争の時、私は日本のイスラームの本部に出向き、イスラームの法学者の方とともに宗教者としての無力さを告白しあった後、大勢のムスリムの方々との暖かい交流の中、ともにイラクの人たちの幸せについて祈りました。そこで私たちが行ったことは「ただ祈っているだけ」それだけでした。しかし、私たちはイラクの人々に平和が必づ訪れることを信じ、ともに励ましあえる仲間を確固たるものとして作っていくことがその瞬間にできたと確信しています。またそれこそが信仰を持つものの喜びの原点だったはずです。そして、平和は個人の幸せの集合体としてしか存在できないもののはずです。

 だからこそ、信仰を持つ人も持たない人も、宗教とは仮説体系であり、同時に形而上学上のものであり、その信仰を受け入れた者に対してのみの真理であり、自分とは違う宗教や考え方を持つ人をお互いに尊重しあう中で共有できるものをお互いに見つけることができるものである、ということを忘れてはいけないのです。私は宗教というものを形の上で考えるときには、そういうものだと考えています。

 

 

 

 

© 橘青洲 All right reserved.