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■魔女の宗教と日本社会
 1.宗教と現代日本社会
 2.カルトについて
 3.カルト宗教としての魔女の宗教

 


1.宗教と現代日本社会 -日本の宗教トラウマ-

 日本で魔女の宗教を実践し、信仰していく上で日本の社会と宗教事情を把握しておくことは重要です。そこで「魔女の宗教」の連載の今後を続けるために基礎的な知識の整理などをしておきたいと思います。

私たち宗教者や、外国の信仰を持つ多くの人は、自分にとって宗教は必要不可欠なものだと思っています。また、同時に自分自身に限らず、宗教とは人間にとって必要なものだとも思っています。私なども日々、陰鬱なニュースに触れるたびに、日本の社会に法律のような外側から人間を律するものばかりでなく、内側から人間を律する宗教の必要性を強く感じます。

 しかし、宗教が人間にとって必要だと言う考えはおそらく多くの日本人には賛成されないでしょう。

 第二次世界大戦の時、当時の満州重工業の総裁であった鮎川義介氏が独訪してヒトラーに面会した時、ヒトラーは、

 「貴国が如何に努めてみても、我がドイツのような工作機械は作れないだろう。しかし、ドイツがどうしても日本にまね出来ないものがある。それは貴国の万世一系の皇統である。これはドイツが100年試みても、500年間頑張っても出来ない」という話をしたと言います。

 なぜここでいきなりヒトラーの話が出てくるかと言うと、ここでヒトラーが言っている「貴国の万世一系の皇統」というのは無論日本の天皇制のことですが、これは同時に「国家神道」のことを言っているのです。ヒトラー自身が宗教の話をするとき、最後に「なぜ我々は、日本人のように、祖国に殉ずることを最高の使命とする宗教を持たなかったのか?」といって話を締めくくったと言うことを考えると、ヒトラーは天皇制と国家神道を同じものと認識していたのは間違いなく、また、実際日本(当時の大日本帝国)国内でもその認識は適切かつ正しかったのです。

 やがて日本は敗戦を迎えます。
 これは日本にとって歴史上最初の(そして現段階では最後の)敗戦でした。現人神が直接統治をする「神国日本」が敗れたと言う事実が当時の日本人に与えた影響はおそらく現代の私たちが想像もできないものだったと思います。そして、それは同時に「大多数の日本人にとっての宗教」が崩壊した瞬間でもあったのです。やがて現人神だと信じていた天皇陛下が人間宣言をなされ、ここに日本人にとっての宗教の崩壊が決定的となったのです。

 この歴史的な出来事が、日本人の多くが自覚的な宗教を持たない民族に変容した大きな節目であったことは間違いないでしょう。この瞬間まで日本人はそれに対する評価は別問題として人生の中心に宗教をおいていました。しかし、それが崩壊してしまったのです。そして、それに変わる宗教を日本人は得ることのないまま何代かが続き現代に至っているのです。

 形式上で言えば、宗教を信じる人が、この社会全体の状態や有様を、教えという一つの切り口で大胆に「形容」してみせることが、宗教を「信じる」ということなのですが、日本ではその宗教というものが一部の人間の恣意的な誘導によって、不幸なことに人を統治する、しかも戦争への道を進ませる道具に利用された時点で終わっているのです。本来の宗教とは穏やかで人が生きる為のルールブックのような存在であったはずであったのが、捻じ曲げられ、結果として日本人の自覚的信仰心は奪われたのでした。その後色々な宗教が日本の中に生まれ、また外からもやってきました。しかし、日本人は民族的な宗教トラウマをこのように形成していたため一部の人を除いて自覚的信仰に再び目覚めるということはいまだないのです。大人数を擁する宗教団体が反論したとしても現実的に日本に自覚的信仰としての国教が生まれるとは考えにくいですし、事実上現状ではありえないでしょう。

 しかし、同時に日本人の中にも、本来の宗教を求める気持ちを持った人は少なからずいます。しかし、前述のようなトラウマをもった社会である日本にはそうしたものはなかなか望めるものではありません。かりに本来の宗教に出会うことができたとしても、自覚的信仰を持つこと自体をある意味敵視するような社会構造の中で、それは語弊はありますがアウトサイダー的な視線を浴びることを覚悟しなければなりません。多くの健全な宗教は穏やかなものです。なので、そうした社会との軋轢をいかに受け流すかというスタンスを取ります。しかし、純粋な若い人の心はそれでは満足しません。そこで、社会に対して断固として立場を取る姿勢こそが「正しさ」というような短絡的錯覚を導きます。そこでオウムを筆頭とする破壊的カルト団体が「本来の正しい宗教」のように感じられ、若者をひきつけていくのです。そしてその結果、益々日本の社会と宗教が乖離していくのです。この悪循環を否定できる人はいないのではないでしょうか。

 それでは、こうした日本の社会の中で宗教者として生きるということはどういうことなのでしょうか。これは私自身が自分に対して宗教者としてどういう生き方をするかという日々の自問自答でもあります。

 30年ほど前から私はテレビを見ない生活をしています。それはニュースをみたくないからです。テレビのニュースというのは当然のことながら時間通りに毎日流れます。つまり、こちらがそれを受け入れるような精神的な状況であるかどうかにかかわらず一方的に与えられるのです。ところが、ニュースを見て明るい気持ちになることはほとんどありません。それどころか毎年毎年、報道される事件の凶悪性は高まり、陰惨で暗い気持ちにさせるものばかりのオンパレードです。

 私の年代ですらそうなのですから、こうしたニュースを見て育った世代が正義感あふれる多感な時期に、法律で人を律することの無力さを感じても不思議はありません。そして彼らがより良い社会を作りたいと使命感に燃え、模索し、宗教による内面から人を律することを考えることは容易に想像がつきます。多くの友人が諦めと共に現実を受け入れ、社会に希望を失っていく中に自分も溶け込んでいくことに同意しかねる、いや、強い拒否感すら抱いて現状を打破しようと志を持つのです。

 しかし、現実はそれを受け止められるだけのものがないという事実にぶつかります。そうした中で一部の若者が、人間を超越する存在への崇敬と人間の不完全さを謙虚に認めた上で、より高みを目指そうとする宗教の姿勢に強い共感を感じることも理解できます。

 前述した破壊的カルトの問題はこうした事情の中で起こるのですが、私たち宗教者はこうした若者の気持ちに応え、より良い社会を次の世代に伝えるための一歩一歩を日々刻んで見せるしかないのではないかと思っています。これは、決して威勢のよいことも、派手な格好良さもありません。ただ、地道に先を歩いて見せる以外にはない道です。しかし、宗教者として、そして、かつて若者であった大人として、そうした姿を見せることしか所詮人間にはできないのではないかと思うのです。

 日本が自覚的信仰と習俗的な信仰の理解をきちんとしていない社会であることは以前述べましたが、こうした民族的な宗教トラウマを理解した上で、そして、本来の宗教を求める人がいつの世代にも少なからず存在していることを意識して、宗教者は自覚を持って自分の歩くべき道を日々考えなければいけないのだと思います。

 

 

 

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