7.「わかった」と「わかっている」
物事は「わかった」か「わからない」かの二つしかないという話をしました。そして、「わかったつもり」が実は全然わからないということと同じだということも話しました。そこで
「わかった」と「わかっている」
についてを考えてみましょう。
簡単に言えばこの二つの違いは時制です。つまり、
「わかった」は現在
「わかっている」は過去
です。これには大きな違いがあります。
良い面では、わかっているということはそれを土台にして次に新しく得た知識を付け足していく形にすることができ、新しい知識をすぐに自分の血肉とすることができます。
しかし、ここに大きな落とし穴があるのです。
つまり、この「わかっている」ことが、実は「わかっているつもり」だったらどうでしょう。あるいは本当にわかっていたとしてもその半分くらいしか知らなかったらどうでしょうか。
本当は新しいものでも「それはわかっているから」と、聞き流してしまって、そのまま通り過ぎてしまうことは多いと思います。そして、本当はわかっていると思っているものがわかっていないというのが原因なのに、新しいことが原因で自分が理解できないと思ってしまうことはよくある話です。
そして、それならまだましなのですが、もっと酷くなると全部「わかっているつもり」になってしまうのです。これでは学べば学ぶほど頭の中には日々増大するカオスが生まれ、より真実や成長からは遠ざかってしまうのです。
このような悲惨な事態になる原因は色々表現できるでしょうが、ひとえに「疑う」ということを自分に向けていないことに尽きます。つまり、
「わかっていると思っているけれど本当に自分はわかっているのか」
と、いう疑問を「わかっている」と思ったものに出会ったときには必づ自分に向けるという習慣を持っていればこのようなことは桁違いに起こりにくくなるのです。そして、多くの「わかっている」ということは自分が自分と同じか、あるいは自分よりしたではないかと思っている人から語られた場合、より多く感じます。
「わかった」という今現在の感動がないだけに、わかっていることを聞かされると余計に相手を軽く見る心理から自分に対しての疑いを持つことを忘れてしまうのです。
「我以外皆我師也」
という言葉を常に忘れてはいけないのです。
このような軽率さを脱却できないと、そしてそれを維持する努力が必要になるまでに習慣化しないとこの罠はいつでも待ち構えています。
例えばこんな例もこのことを的確に示しています。
それは、かつて途中まで勉強したものをやり直すということと、新しく何かを学ぶ場合、新しく学ぶ方がはるかにらくだということです。学生時代に数学を学んでいた人が、社会に出て10年以上数学から離れていて、それを学びなおそうとするのにはかなりの努力が必要になります。特に学生時代に学んでいた部分をかつて自分ができたレベルに戻すまでに時間と労力がかかるのです。ところが、学生時代に触ったこともない分野になるといきなり楽になったりします。これは「わかっている」と思っている部分をもう一度自分のものにするために相当な努力が必要だからです。なぜならば、単純計算などは「わかっている」という頭があって、もう一度一からやり直そうという気になかなかなれないからなのです。
外国語でもそうです。英語をやり直そうと思ったときに、学生時代覚えていた単語がどうしても意味がわからない、ということはよくある話ですが、もう一度中学の単語からやり直すにはかなりの抵抗があるものでしょう。
このように「わかっていると思っているもの」は意外と人の成長を阻害するのです。
しかし、人は「忘れる動物」であり、忘れてしまったら、いかにかつてよくできたものであっても「できない人と同じ努力」をしなければ自分のものにはできないのです。ここで「かつては…」などというくだらないプライド(と、呼べると思っているのは本人だけ)を捨て去らなければいつまでたっても退行していくだけなのです。
少し話し外れますが、そもそも「実力の裏づけのないプライド」など自分が軽蔑されたり、馬鹿にされるためのネタを後生大事に抱えているようなものに他ならないのです。少なくても私はそういう人がプライドを持って語ってきたときには再起不能になるくらいまで徹底的に粉砕することにしています。
話を戻します。
よく謙虚さが大切だという言葉は色々な所で聞きます。
しかし、それでは謙虚さとは、という問いかけには辞書的な答えか主観に基づくものを与えられることが多く余計混乱してしまいます。しかし、具体論の一つとして言えば、どんな書物でも、どんな人からでも何かを得ようとしたり、教えてもらおうと思ったときには、そこで与えられるものを全て自分が知らないこととしていったんは受け入れる、ということが大切であり、そうした姿勢が謙虚さの一つの現われなのです。そのように自分の知識などについてを謙虚に捉えなおすことで、本当にわかっていたものならばより自分の中で深化しますし、疑う心を自分に向けることを忘れないですむからです。
今後私は謙虚さについて色々な機会でお話しすると思いますが、そのはじめとして、最低限こうした謙虚さを自分のものにすることから初めて欲しいと願っています。
「我以外皆我師也」
繰り返しになりますが、もう一度この大切な言葉を書いてこの項の結びとします。